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ある朝のこと
 その日、たまたま早起きをし、たまたま早く家を出て、たまたま鞄の中に未読の本を入れ忘れてしまい、たまたま人身事故にぶつかった。
 ――タイミングが悪い。
 ちょうどひと駅分進んだところで止まられても、この時間では当然本屋も開いていない。車内は程よく空いているけれど、座れるほどではないし、駅にとどまっている時間が長引けば長引くほど混んでいくことは経験上知っている。
 せめて手元に本の一冊や二冊があれば、逆に格好の読書タイムとして楽しめたのにと今日の間の悪さを憎んでも掌の中に本が現れるわけでもない。
 いらいらが募るのは、目の前に同じ制服を着ているにもかかわらず、優雅に席に座り、片手に文庫本を、片手にiPhoneを握って読書にいそしんでいる人物がいるからだ。
 本を読むなら読む、iPhoneを使うなら使うかのどちらかにすればいいのにと思う。もちろん声には出さない。うっかり口を開いたら、iPhoneに専念してその本を自分にくれと言ってしまいそうだ。
 本を忘れた自分が悪いのだからと気を落ち着かせようにも、いつもより時間の余裕はあったのだから荷物の確認ぐらいしておけばよかっただの、せめて電車に乗る前に気付けば家に帰れただの考え始めてしまう。
 となるともう、逆恨みだとわかっていても目の前のつむじをにらみつけるぐらいしかやることはないのだ。
 車内アナウンスにも一切気づかずに顔を上げる様子もなかった顔見知りがこちらに気付いたのは、手にしていた文庫を閉じたときだった。
「あれ、こんこん先輩?」
 きょとんとした様子にいらっとしたが、今となっては些細なことだ。
「おはようございます、でるた先輩。その本貸してください」
「うん? はい、どうぞ」
 幸いにも、受け取った本はまだ読んだことのないシリーズの一冊目だった。

 いい一日だなと、それまでの不満を霧散させ、ぶつぶつと聞こえてくる気のする文句も聞かないことにして、未知の世界へと飛び込んだ。

 ***

 朝の電車内でたまたま顔を合わせた相手は珍しく授業と授業の合間の短い休憩時間にやってきたとおもったら、貸したばかりのはずの文庫本が返却された。
「今朝はありがとうございました。続きは? まさか一冊しか持ってきてないってことはないですよね」
 掌の内側を晒すように差し出された手は言葉よりも雄弁に何かを語っている。
 確かに持ち歩いている冊数は一ではないのだけれど、この本を借りに来たとも思えない高圧的な態度はいったい何なんだ。
「……シリーズものは感想書いてからじゃないと次は読まないようにしてるから持ってないよ」
「ちっ、使えねえ」
「舌打ちかよ!」
「じゃあ続きじゃなくていいからなんか一冊貸してください。三冊ぐらいは持ってるんでしょ。この際、既読でも我慢します」
「それ我慢と違うよね!?」
 しかし結局、どれだけ突っかかってみても「はーやーくー」と催促されるとなぜか罪悪感がわいてくるのが困るところだ。
「はいはい、ちょっと待っててください」
 全くなんでこんなことに。
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