> たいした問題じゃない
たいした問題じゃない
ほんとうにまったくこれっぽっちもと思わないとやってられない
 一人暮らしを始めたことによる最大の誤算は、ネットで本が買いづらくなったことだ。もし次に引っ越しの機会があるとしたら、宅配ボックスがあるところか、駅前あるいは利便性のいいところに二十四時間営業の大きな本屋があるところかどちらかにしようとひそかに決心するぐらいには困っている。もともと、なかなか本屋に赴くことができないからネット書店を多用するようになったのだけれど、どれだけ買っても本が自宅に届くという副産物のほうがメインになり、おかげで実店舗では無意識のうちに重量という観点からセーブできていた購入数に歯止めがからなくなった。
 困ったものだと嘯きながらもかちかちとついついカートに放り込んでしまうのは、やはり本屋に行くことができないからだろう。読めずにたまっていく本の量にさすがに反省して宅配に頼らないようにしようと決意し、休日の本を読む時間を潰して少し遠いところにある大型本屋に行ったこともあるのだが、その時の荷物の重さは思い出したくもない。どちらにせよ同じ量を買い込むなら、届けてもらう方が楽だと割り切ることにしたのはその時だ。
 土曜が休みの時は金曜の夜に、土曜も出勤になったときには土曜の夜に注文する。都内に越したことで便利になったと思うのは、どんな遅い時間に頼んでも翌日には届くところだ。楽しみのあまりどうしても週末まで待てず、発売日に手に入れてその日、あるいは翌日に読みたい本だけは実店舗に赴く。そのに際何冊か上乗せで本を買うのは想定内だ。ネットで本を買うとどうしても欲しい本にしか目がむかないけれど、書店員の推しの強さで平台に残っている本には案外掘り出し物が多い。
 感想サイトはあえて読まないようにしている。あれもこれも面白そうと手を伸ばした結果、ひどいことになったことがあるからだ。それに、日々Twitterで顔を合わせる面々が虎視眈々と人のカートに本を増やそうとするので、まだおとなしく言うことを聞いておいたほうが害は少ないしはずれをひく確率も低い。
 たまに、よくそんなに読んでいて嫌にならないねと言われることもあるけれど、物語単体に対する好悪と読み続けることに対する好悪は別物だ。最初に手に取ったものが面白くなかったからといって、その次もまたそうだというわけではない。楽しめるものと楽しめないもののどちらの数が多いかなんて人によって違う。読まないことによって面白い物語との遭遇を自分から減らすなんてもったいない。どれほどつまらなくて読み進めるのがつらいと思った物語でも、時間を置いて読むと意外なほど楽しめたりする。
 それでもどうしても楽しめない物語もあるけれど、それはもう仕方が無いと割り切ることにしている。何もかもを好きになれるというのは結局は理想でしかない。それでも読めないものがあるというのはもったいない気がして、出来るだけいろんな物に積極的に手を出してしまう。
 とはいえ欲望のまま買って読んでいたら部屋も埋まるので、よっぽどのことがないかぎり読了した本は手放すようにしている。本棚に入れる本は個人的な殿堂入りだけだ。床に本を積み始めたら止めどなくなることはわかりきってる。
 現に、知り合いにも一人いる。床の殆どを本に浸食され、本雪崩により安眠を妨害されるとしょっちゅう愚痴っている本読みが。あの読書狂も本が消えたとかPOSTする前に整頓を覚えればいいのにと考えてしまって、すぐに顔をしかめる。
 先日引っ越したと言っていたその人は、格好の整理整頓の機会を見事になかったことにしていた。どうやったらそんなことになるのかよくわからない。
 ああはなるまいと、とりあえず掃除でも始めようかと立ち上がったところに、ぴんぽんとチャイムが鳴った。
 お届け物でーすの言葉にうきうきと玄関へと向かい、待ちかねていた本を手にした。掃除なんか後回しだ。受け取った段ボールは二つだったが、まれに頼みすぎたり版型の関係で分裂することはあったから特には気にせず短い廊下を抜けていそいそと部屋に持ち込む。まだ読んでいない本は何冊もあるのだけれども、新しく届く本はいつだって楽しみだ。
 二箱分の封を開けて今日の本を記録するために並べていく途中で違和感に手を止めた。
 何度見ても同じ本が何冊もある。あまつさえ新刊が楽しみで楽しみで発売日に本屋へとどうにか赴いて確保してきた本まで出てきた。
 すごく楽しみにはしていたけれど、予約でカートに放り込んだ記憶はないし、今回の注文は発売日が挟まったから買ってきた物を確実に除いたラインナップになっていたはずだ。
「うーん……そこまでぼけたか?」
 しかしいくら記憶をあさってもまるで思い出せず、発想を転換して箱の中をあさって納品書を取り出す。
 原因はすぐにわかった。あきらかに受取人名が違ったのだ。ただし、住所はまるっきり同じだった。あろうことか部屋番号までが。思わず自分一人しか住んでいない部屋を見回したが他人の気配は、もちろんない。
 妥当なところでは新しく越してきた誰かが自分の住所入力を間違ったというところだろう。幸い同じマンション内に住んでいる相手ならば探しようはある。一番可能性が高いのは入力時に間違えそうな数字、あるいは覚え間違いをしそうな数字だろう。近いところから順繰りに回ればいいかと箱を手に立ち上がったあとにふと首をかしげた。
「はて」
 ところで先日越してきたばかりで挨拶にも来ていない隣人の名前は、何といっただろうか。表札が出ていれば迷わずに済むのにと考えながら、納品書に従って本を箱に詰め直して部屋を出た。
 結論から言えば、この現代社会に珍しくしっかりとフルネームで表札を掲げた隣室のおかげで、重い箱を抱えて無駄にうろつかずに済んだ。あまり深く考えずにチャイムを鳴らしてから、昼日中じゃない方がよかっただろうかと考えたが、押してしまったものはなかったことにはならない。
 ぼんやり待っていたら、インターホンの存在をすっ飛ばしていきなりドアが開いたので、外に向かって開く扉から慌てて飛び退いた。
 突っかけも履かず、裸足で出てきたその人にどこか既視感を覚えて記憶を探れば、かなり浅い階層で照合に成功する。
 ――この広いはずの都会で、なぜわざわざ顔見知りが隣人に。
「先輩?」
「は? え、先輩?」



 まあ上がっていきなよと招き入れられた隣室は控えめに言って本の腐海だった。
 玄関の三和土にこそ本は積まれていないものの、廊下にはびっしりと山がそびえ、間に空いているようにもみえる細い隙間は決してまっすぐではなく、獣道とも言うのをためらう様な、あえて言うなら、雪が降り積もった後に道を作るのが面倒でただ歩いて靴跡が付いているような光景に似ていた。しかし真実、雪道ならともかく、毎日歩かざるをえないはずの廊下こういう風に本を積むほうが難しい気がしてならない。
 本が詰まった箱を抱えてひょこひょこと本の山を越えるのは難しかった。自分の部屋とそう変わらない間取りと面積のはずなのにやけに廊下が長く狭く思える。何とかたどり着いた部屋のはずの空間も想像に違わず本があった。
 真中だけ少しだけ床が見えているけれど、すり鉢状などという生易しい状態ではなくもうひたすらに床に本が地層のように堆積している。
 壁の一面は本棚がいくつか置かれてみっしりと詰まっているが、ざっと見たところ何かの法則に従って収められているわけではないようだった。作家やレーベルごとという以前に、版型がまるでそろっていない。高さぐらいは揃えたほうが、本棚の高さを調節しやすくなるからもう少し入るんじゃないだろうかと思わせる。
「ねえ先輩」
 人を引っ張りこんだくせに、もてなす意思もなさそうに床に座り込んだ人を見下ろす。
「なに」
 こちらを見ることもなくぱたぱたと本の山を崩し始めたその人に、このままでは座っていいよと言われることもあるまいと足元に視線を落してみても、どうして目の前の人が座れているのかわからないぐらいに本が積まれている。
「……いつ引っ越したって言ってましたっけ」
「んー、先週かな。なんで?」
 日記にも書いたじゃないと言われて溜息をつく。くだんの文章は確かに読んだが日付まで覚えている訳が無い。
「どうやったらこんなに散らかせるのかと思って」
 引っ越してきた日そのままに段ボールが積まれていてもおかしくないぐらいの日取りなのに、箱は残骸すら無く混然とただ本だけが部屋に詰まっている。ゴミの一つや二つさえ落ちている気配がない。男の一人暮らしにしてはある意味きれいな方じゃないだろうか。
「やろうと思ってやったわけじゃないよ」
 狙ってやったんだったら逆にすげーよというつっこみはさすがに飲み込んだ。それこそまめにかかれている日記と、日常がそこそこかいま見えるTwitterのPOSTでこの部屋の惨状はたやすく想像はついていた。問題はそれよりも引っ越したにも関わらず何一つ変わらない状況に陥ることができるのかというところだ。
 おそらく、引っ越しそのものを誰かに手配されて、あんたはほっといたら一年は段ボールがそのままでしょとか言われて全部の荷を解かれたのだろう。
「ああもう、どうしてさっきまで読んでた本が出てこないのさ」
 癇癪を起こして狭い隙間に器用に寝ころんだ弾みでまたどこかで本が崩れる音がした。地殻変動の激しさを目の当たりにしてもはや溜息をつく気力もない。
「部屋のせいでしょう」
「こんこん先輩がいきなり来るからだよ――そういえば、どうしてここがわかったの? そもそも、今週上京の予定あったっけ?」
 やっと本の捜索を諦めた人がまともにこちらを見たので、そうそうそれを最初に聞くもんですよとさすがに重くなってきた箱を持ち直す。
「でるた先輩、ここ何号室かわかります?」
 うん、と頷いて告げられた数字は正しかった。
「これはあなたの打ち間違えによってうちに届いた荷物です」
 置く場所が見あたらなかったので床に降ろすことは諦めて、目の前に差し出せば相手は素直に受け取ってくれた。
「は?」
 一度適当に封を開けたのでもう一度ガムテープを張り直したりはしなかったが、宛名が印字されたシールはそのままにしておいたので宛先が確かに自分だと確認できたのか抗議の声はあがらなかった。
「中は、一度僕のと混ぜちゃったんですが納品書と照らし合わせてピックアップしたのでたぶん間違ってないと思います。気になるなら確認して下さい」
「わかった」
 先程まで読んでいたらしい本が見つからなかったからか、おとなしく箱を開けて本をその辺に積み始める。そのあまりの無造作っぷりに驚いたのはこちらだ。
「確認しなくていいんですか?」
「だってこんこん先輩が見てくれたんでしょ」
 何で聞くのかまるでわからないというようにきょとんとした顔に戸惑いながらも頷く。
「ええまあ」
「だったら大丈夫――あ、これ来たんだ」
 ある一冊で嬉しそうに顔が綻んでそのままページを開いた人が手元に熱中し始めたのをしばらく見守ってしまった後、自分の部屋にもとりあえず取りだした本を散らかしたままだったことを思い出した。
「はあ……じゃあ僕帰りますね」
「うん」



 件の先輩からDしたという@が飛んできたのは、突然のお宅訪問から何時間か経った後のことだった。
 なんで携帯電話という文明の利器を使わないんだろうこの人は、と思いながらクライアントのDMタブをチェックすると、百四十字目一杯使って、なんで勝手に帰ったのかだのもう一回挨拶に来いだのの文言がつらつらと並んでいた。
「これはひどい」
 気づいてないだろうとは思いながら帰ったのは確かだけれど、呼び出されるだろうという予想とその手段が当たっても嬉しくはない。なんにせよ、あの本の腐海と呼ぶのも腐海に失礼な気がする場所にもう一度赴く気にもなれず、Dの返事にただ三桁の数字を打ち込んだ。
「隣なら隣って言ってよ。あとなんで勝手にいなくなってんの」
 意図をちゃんと汲んで、さほど間をおかずやってきた隣人は迎えに出た玄関で開口一番そうのたまった。
「隣なのは言いませんでしたが、帰りますよって僕はちゃんと言いましたよ」
 あと住所間違って届いきましたよと言った時点で何かが明白だったので、言わなくてもいいやと思っていた事は否定しない。聞いていないだろうと思っていたしと息をつく。
「本を読んでる僕が人の話をまともに聞くわけないじゃない」
「あんた最低だ!」
 堂々と言われるとこっちが対応に困る。座る場所も無いところに自分で招き入れたくせに客の応対ぐらいしてほしい。と、過ぎ去った事に対していつまでも文句を言っていても仕方ないし、こんなところで立ち話もあれだしとくるりと身を翻したら後ろから袖を引っ張られた。
「ちょっと待ってよ」
 と、犯人の方がなぜか拗ねた顔をしている。
「何ですかいきなり」
「あがっていいの?」
 遠慮という言葉を知っていたとか驚きだ。何だろうこの意外な律儀さとは思ったものの、細かいところは結構ちゃんとしたところがあるというのはそういえば知っていた。とはいえ、普段はそんな事を意識させない程度には傍若無人なのだけれども。
「……先輩、実は吸血鬼だったりしませんか」
 住人の許可がないと家に上がり込めないとかそんな感じの。
「誰がだ!」
「まあ、たいしたおかまいもできませんがどうぞ」
「おじゃまします」
 たまには殊勝なのも悪くはないと思いながら先を歩く。隣家と違って床に本を積む習慣は無いので同じ間取りだけれども廊下は広々としている。一人暮らしの家に客用のスリッパなどというものは用意しなかったから素足だけど仕方ない。座布団も予備が特にないとはいえ、先程の光景を参照するだにおそらく床に座る事に抵抗はないだろう。



「あれは本当に三次元の生き物なんだろうか……」
 理不尽な客は最後まで理不尽なまま、なし崩し的に夕飯までしっかり食べて帰っていった。たしか、夕飯にするから帰れと言ったはずなのに、気にしなくていいよとか人の部屋を勝手にあさって見つけた本を読みふける人に言われて本当に気にせず一人で食べれるほど太い神経は持っていないので、適当に二人分作れる材料があった料理を作って提供して就寝時間一時間前になんとか追い返す事に成功した。今日は土曜だから延長戦だよとか言っていたのは無視して、相手が読んでない買ってないと言った本を数冊押し付けて、ようやくだ。
「……いりびたるんだろうなあ、あれ」
 とりあえず一部の知人友人たちだけにはこの状況を知られないようにしないと、という決意はもちろん、どこかの日記魔によって粉々に砕かれた。
 ちゃんと制限かけた方にしたよとかそんな問題じゃない!という抗議はもちろんなかったことにされた。
 でもこれで、宅配の受け取り先を隣にすれば毎日欠かさず本が受け取れるかと思った自分も同じ穴の狢だという事は、たぶん、たいした問題じゃない。
 
> ある朝のこと
ある朝のこと
 その日、たまたま早起きをし、たまたま早く家を出て、たまたま鞄の中に未読の本を入れ忘れてしまい、たまたま人身事故にぶつかった。
 ――タイミングが悪い。
 ちょうどひと駅分進んだところで止まられても、この時間では当然本屋も開いていない。車内は程よく空いているけれど、座れるほどではないし、駅にとどまっている時間が長引けば長引くほど混んでいくことは経験上知っている。
 せめて手元に本の一冊や二冊があれば、逆に格好の読書タイムとして楽しめたのにと今日の間の悪さを憎んでも掌の中に本が現れるわけでもない。
 いらいらが募るのは、目の前に同じ制服を着ているにもかかわらず、優雅に席に座り、片手に文庫本を、片手にiPhoneを握って読書にいそしんでいる人物がいるからだ。
 本を読むなら読む、iPhoneを使うなら使うかのどちらかにすればいいのにと思う。もちろん声には出さない。うっかり口を開いたら、iPhoneに専念してその本を自分にくれと言ってしまいそうだ。
 本を忘れた自分が悪いのだからと気を落ち着かせようにも、いつもより時間の余裕はあったのだから荷物の確認ぐらいしておけばよかっただの、せめて電車に乗る前に気付けば家に帰れただの考え始めてしまう。
 となるともう、逆恨みだとわかっていても目の前のつむじをにらみつけるぐらいしかやることはないのだ。
 車内アナウンスにも一切気づかずに顔を上げる様子もなかった顔見知りがこちらに気付いたのは、手にしていた文庫を閉じたときだった。
「あれ、こんこん先輩?」
 きょとんとした様子にいらっとしたが、今となっては些細なことだ。
「おはようございます、でるた先輩。その本貸してください」
「うん? はい、どうぞ」
 幸いにも、受け取った本はまだ読んだことのないシリーズの一冊目だった。

 いい一日だなと、それまでの不満を霧散させ、ぶつぶつと聞こえてくる気のする文句も聞かないことにして、未知の世界へと飛び込んだ。

 ***

 朝の電車内でたまたま顔を合わせた相手は珍しく授業と授業の合間の短い休憩時間にやってきたとおもったら、貸したばかりのはずの文庫本が返却された。
「今朝はありがとうございました。続きは? まさか一冊しか持ってきてないってことはないですよね」
 掌の内側を晒すように差し出された手は言葉よりも雄弁に何かを語っている。
 確かに持ち歩いている冊数は一ではないのだけれど、この本を借りに来たとも思えない高圧的な態度はいったい何なんだ。
「……シリーズものは感想書いてからじゃないと次は読まないようにしてるから持ってないよ」
「ちっ、使えねえ」
「舌打ちかよ!」
「じゃあ続きじゃなくていいからなんか一冊貸してください。三冊ぐらいは持ってるんでしょ。この際、既読でも我慢します」
「それ我慢と違うよね!?」
 しかし結局、どれだけ突っかかってみても「はーやーくー」と催促されるとなぜか罪悪感がわいてくるのが困るところだ。
「はいはい、ちょっと待っててください」
 全くなんでこんなことに。
 
> 図書室にて
図書室にて
「すみません、今日はいるって聞いてた本が新刊のとこにないんですけど」
 放課後になるやいなややってきたその生徒は、新刊棚の前で五分ぐらいうろうろした後にカウンターまでやってきた。
「はあい。調べますのでタイトルをどうぞ」
 告げられた書名の行く先は、調べるまでもなく知っていた。
「ああ、そういえばたのしみにしていらっしゃいましたね」
 そもそもが今目の前にいる生徒を筆頭に何人かに
「もしかして」
「昼に飛び込んできた子が借りて行きましたよ」
 
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