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Dinner without manner
帝人と臨也とごはんの話
 いつも変わりない急勾配の階段をゆっくりと降りてドアをくぐれば、さして広い店内はすぐに見渡せる。昼飯には遅く、夕飯には早いこの時間に客は少なく、デザートメニューが充実しているとは言い難いこの店にティータイムを消費しに来る客はもっといない。
 お一人様ですかとは聞かれても煙草について問われることがないのは、たんに制服でこの店を訪れるからだ。お好きな席をどうぞという言葉に遠慮なく店の一番奥の角に座り込む。
 卓上に置かれたメニューをおざなりに目を通してすぐに閉じる。自分の思考がことさら頑固だと思ったことはないけれど、気に入ったメニューを飽きるまで繰り返し繰り返し食べ続ける傾向があるのは確かだ。変化のない平穏な日常を愛しているわけでもないので、食事というごくありふれた行為のなかにささやかながらも改革を取り入れるべきかもしれないとは思うこともある。
 しかしどれほど悩んでも最終的にはいつものメニューに帰ってくるのが常だ。せめてもの反抗として、デザートだけは毎回別のものを食べるようにしてはいるものの、飲み物は結局いつも同じにしてしまうあたり、我ながら根が深い。
 ひとり嘆息してからちらちらとこちらの様子を窺っていたウェイターに注文を告げ、実際に皿が運ばれてくるまでの短い時間に鞄から問題集を取り出した。
 いかに日常から離れたいと願ったところで高校三年生という身分はこの先を考えるとおろそかには出来ない。ましてや進学率などを理由に家を離れて一人暮らしを始めた以上は、ある程度の結果をあげないと、学費のみならず本来なら必要がなかったはずの生活費も持ってくれた親に申し訳も立たないという理由もある。
 この店で食事をしながら開く科目は殆どが古文だ。見開きの二ページをゆっくりと咀嚼しながら読み下し、デザートに取りかかってから改めて辞書をめくる。試験で問われるような細かい品詞の分解は、飲み物のお代わりを頼んでノートを広げてからだ。
 デジタルデバイスに囲まれて暮らしているけれども、紙という媒体も決してきらいじゃない。英語なら電子辞書あるいは回線につなげた端末で引くけれど、古文に限っては辞書も手でめくるほうが性に合っている。紙の固まりは重いだろうと人に嗤われることもあるけれど、普段持ち歩いているデバイスと比べればせいぜいノートパソコン一台分に届くか届かないかぐらい。いや、一キログラムもないあたり随分と軽いはずだと思う。
 もっとも、このいいわけを口にしても共感を得られないことはわかっているので誰かに告げたことはない。ことのほか合理性を好む後輩あたりには、どちらにせよそんな重い物を持ち歩くなんて信じられないと一刀両断にされて終わりに違いないだろう。その、あきれきった口調はたやすく頭の中で再生されて、思わず口元が綻んだ瞬間に聞き覚えのある声が斜め前方から届いた。
「楽しそうだね。何を読んでいるのさ」
 顔をあげると視界に入ってきたその顔は、にこにことまるで何も考えていないかのような笑みを浮かべている。彼はいつの間に隣の二人掛けテーブルに壁に向かうように座ったんだろう。机上にはメニューがぞんざいに開かれている。まだ来たばかりなのだろう。
「源氏物語ですよ」
 実にこの問題集の半分はかの古典から引用されている。古文と呼ばれる区分の文章はこの先新しい物が作られるようなものではない。理論上は事前に読めば読んでおくほど受験という本番で知った文章に当たる確率が高くなる。源氏物語という有名どころならなおさらだ。
「あさきゆめみしか。読んだ?」
 源氏物語と聞いた大人が大抵は口にする漫画のタイトルを、まさか今目の前にいるこの人からも聞くとは思わず、驚く。
「はい。園原さんが貸してくれたので」
 進めてきたのは古典の担当教諭だったのだけれども、その話をしたところ翌日に全冊が手渡された。その日に布団に入ってから何となく手を伸ばしたら、おもしろくて止まらなくなったことは覚えている。
「ふうん。うちの妹たちも好きなんだよね、あれ。ベルばらとかもさ。いや、あれをおしつけてきたのは新羅だったかな」
 喋りながら器用にもウェイターを呼びつけ、食べる物を注文した。見るだけで暑さを感じる黒いコートは着たまま、ずるりと背もたれに体を預けている。ふんぞり返るというよりも、どこか気だるい雰囲気だ。
「読んだんですか、ベルばら」
 未読だけれど、あまりにも有名なそのタイトルと、フランス革命が主眼に置かれていることぐらいは知っていた。
「もちろん。すごいよね、あれだけ濃い話が文庫にするとたった五冊なんだよ。読んでいないのなら貸そうか」
 しかも持っているらしい。意外性があるような、ないような。自分で買ったものではないなら驚かないような気もする。
「遠慮します」
 選択科目はいまのところ日本史であって世界史ではない。高校三年生に上がるときに選択した科目をいまさら変えるような羽目に陥りたくはなかった。面白いと感じたことに流されやすい己の性分はわかっているつもりだ。
「おもしろいのに」
「……臨也さんには関係がないでしょうが、うちは来週から試験なんです」
 そんなときにおもしろいとわかっている物を貸されても時間が無為に消えるだけだ。三年生に進学してから定期試験といえども教科書の範囲に沿うような、詰め込みが効くものではなくなっているけれど、だからといって何もしないままでいいわけでもない。それに、毎日のこつこつが大事だと理性ではわかっていても、試験が近くなれば不安が騒ぎ出す。毎日の授業をちゃんと受けていればそれ以外の勉強はいらないと言えるほど賢い頭をしているわけではない。
「知ってるよ」
 妹たちが人のカレンダーに書き込んでいったからねと、嘘とも本当ともつかぬ口調で彼は嘯いた。身内を語るときだけ飄々とした口調が少しだけ濁ることを自覚して、ごまかそうとするからだろう。
「勉強を教えたりするんですか、臨也さんが」
 面倒見が悪いと思っているわけではなく、むしろその逆であることはわかっている。むしろお節介が過ぎるきらいがあるこの人に勉強を見られるのは、どちらかといえば鬱陶しいに違いない。そもそも無料で教えてあげるといわれてもその裏にあるものを勘繰らずにはおれない。
「まさか。もともとテストのために勉強するような子たちでもないしね」
「頼りにされていない、と」
「ま、ただじゃないしね」
 そう肩を竦めて、黒尽くめの男はコートも脱がないまま運ばれてきたスープに口を付けたので、意識を切り替えて手元に視線を戻した。

       * * *

「今日は古文じゃないのか。珍しいね」
 新宿に拠点を置いているはずの人間がなぜこうも頻繁に池袋に姿を見せるのかという根本的な疑問は抱く前に捨てた。やりたいことをやりたいようにしかやらない人に、好奇心以外の動機の存在を期待することは無駄だ。そんな理屈は最初からない。
 いつも席が隣り合わせの斜め向かい合わせになるのは、あとから来るこの人がわざわざやってくるのもあるし、席が選び放題のこの時間にしか顔を合わせないのもある。
「そうですか?」
 古文が多いのは確かだけれど、全くやっていないというわけではない。三回に一回は現代文をひろげているし、十回に一回ぐらいは日本史のときだってある。今日が英語なのは、すでに古文のノルマ分を終えてしまったからで、辞書は持ってきていないからこの答え合わせまで終えたら店じまいの予定だ。
「ふーん。何か法則でも?」
 メニューを広げながらも、目線をこちらによこして笑うのでわざと深く息をついた。
「心にもないことは聞かないでください。答えるのも面倒なんで」
「本気だったらどうするのさ」
 アヒルのように口をとがらせた男がその顔のまま、こちらの様子をうかがっていたウェイトレスを呼びつけて人差し指だけで注文を済ませる。
「情報として売りつけますよ。せいぜい誰かに高く売り払って下さい」
 需要の心配はしない。手に入れたからには何らかの必然性を持たせてどこかで利用するだろう。
 目の前のこの男が情報屋を名乗りありとあらゆることに首を突っ込むのは、その根源に人間という漠然としたものに愛を抱き、何もかもを己の手に収めたいと思っているからだということを知っている。
「そんな情報買ってあげないよ」
 誰にだって売れやしないというぼやきに返す言葉はない。殊更に売りつけたいわけではないのだけれど、見返りに知りたいことが分かれば御の字だ。問題はそんな都合のいいことが起こるはずがないというところだろうか。
 少しだけ悩んでいたら、ちょうど食前のスープが隣に運ばれてくるところだったので、ぱたんとノートを閉じた。
「古文以外のものは、単なる気分であってローテーションなんかありません」
「だろうね」
 だったら聞かないで下さいとは言わないで、代わりに一礼して下がるところだったウェイトレスを捕まえた。
「すみません、クリームソーダ下さい。隣の人に」
 いつごろお持ちしますかと聞かれたので、食後と答えてから机上に広げていたあれこれをまとめて席を立つ。
 向かいの席に置いておいた肩掛け鞄とキャリングケースに適当に分散して突っ込んだにも関わらず、ずしりとした重みが肩に食い込んだ。周囲に倣って使っているキャリングケースは、見た目ほどものが入らないうえに持ちづらいのでそろそろ代替品を検討する頃合いかもしれない。もっともそう思うのも一度や二度のことではなく、たまに不便を感じるだけなのだからおそらくキャリングケースが壊れるまでか受験が終わるまではこのままだろう。
 机上に広げるのは参考書や問題集に辞書、ノートだけなので忘れ物の確認は特にしないで済ませる。本の一冊や二冊を忘れたとしても、足繁くこの店に通っている己はとっくに従業員にも把握されていて、来店時にどうぞと差し出されたことは一度や二度ではないのだ。
「飲んで行かないのかい」
「ええ。僕のものではありませんし、どうぞ臨也さんが飲んでください」
 これだけは忘れてはいけない伝票をつかんで、すぐ脇の黒い頭を見下ろす。
「俺の趣味じゃなかったらどうするの」
「臨也さんが今日は頼まなかったようなので頼んで差し上げただけですよ。氷の上に乗ったアイスクリームの、しゃりしゃりしたところお好きでしょう?」
 何度もこの場所で顔を合わせて、食事をとる光景を見てきたのだ。好嫌の真偽はどうあれ、よく口にするものが何かぐらいは覚えた。
「よく見てるね」
 そりゃあいつもいつも斜め向かいに座る顔見知りの挙措ぐらい、覚えようと思わなくても頭に入る。
「嫌でも目に入るんで。それではお先に」

       * * *

 支払いを済ませて、狭くて急な階段を慎重に上る。その途中でいままで沈黙を保っていた携帯電話がブレザーの内ポケットで震え始めた。取り出して確認するまでもなく着信履歴に不在着信がずらりと並んでいる。
 マメだなあといつもの感想を抱いて、ちょうどかかってきた通話をとる。
『先輩! やっと繋がった。電源は切らないでくださいって言ってるじゃないですか。今どこにいらっしゃるんですか』
 怒気にかすかに混ざる安堵を聞くと、声は正直だと思う。顔が見えない分、油断もしているに違いない。
「いつも言ってるけど電源は切ってないよ。電波が届かなかっただけ」
『わかってて、その場所に行くんだったら切るのと変わりません。詳細はメールで送っておきましたから確認してからもう一度連絡ください』
「あはは、わかったよ。またあとで」
 おそらく、自分が思っている以上にこちらを理解しているのだろう後輩の念押しには、すり減ってもはや無いも同然のはずの良心が微かに痛んだが、気にせずに携帯電話をズボンのポケットに押し込めた。どうせ地上にいればそのうち迎えはくる。どこかに座って参考書を開き直す時間はないことだけはわかっていて、何とはなしに溜息をついた。
 自分で望んだ騒がしい生活に不満は無い。それでも、たまに日常のようでいながらも明らかにおかしいにもかかわらずどうしようもなく穏やかな空間に浸かりたくなる。
 たとえば、たまたま隣に座った人と受験の話をしたり、漫画を勧められたり、ソーダの上に乗ったアイスをものすごく嫌そうな顔で食べるのを眺めるようなそんな些細なことだ。
「やっぱクリームソーダ飲むの、見届けてくるんだったかな」
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