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ホメオスタシス不全
適応不能
夜と朝の境目の気配が残る街を周防尊は足早に歩く。サウナで流した酒気の残り香をすべて洗い流してくれるような冷えた清涼な空気は、街中ではこんな冬の早朝にしか出会えない。タバコを咥えているわけでもないのに流れる白い息に辺りの本当の寒さを想像してみようと思っても身の内に抱えた火は容易く収まるわけはなく、逆に意識したことによって余計に体温が上がって吐き出す蒸気が増えて視界が遮られた。
思わず舌打ちをしつつも、歩く足を緩めないのは急ぐ理由があるからだ。
目的地への最後の角を曲がり、バーHOMRAの看板を視認すると同時に、その前に立っていた人影に驚いて思わず足が止まる。
「アンナ?」
まだ早朝といって差し支えのない時間帯だ。少女の普段の起床時間よりまだ一時間以上早いのに、彼女はしっかりと防寒具を着込んで鎌本力夫と並んでたっていた。
「ミコトっ」
櫛名アンナはまっすぐ走ってくると躊躇いなく立ち止まっていた周防に飛びつく。全身で体当たられても年端もいかぬ小さな体を抱きとめるのはたやすく、勢い余ってぎゅうぎゅうとしがみついてくる身体を支えるために背中に手をそえると、どれだけ外にいたのか鮮やかな赤のコートはたっぷりと冷気を帯びていた。
「どうした」
落ち着かせるのが先かと身の回りに暖かな空気を作って少女を覆い、その背を撫でながら、後ろからついて来た鎌本に視線を向けた。赤のクランズマンは基本的にその体内に火を持つからか、王である周防を筆頭に冬でも薄着で過ごすものは多いけれど、アンナは数少ない例外のほうで、少しばかり特殊な目を持つために火の扱いはうまくない。鎌本はといえば、火力そのものはよわいものの扱いは器用で、アンナが震えていた様子もないのは何かしらの方法で暖めていたのだろうという推測はついた。
「どうもこうも、どういうわけか外で待つって聞かなくて……早く帰ってきてくれてよかったっす」
「草薙は」
まだ日が昇るかどうかぐらいの時間にただ一言「帰れ」とだけ送ってきた張本人である草薙出雲の姿がないことに眉をひそめて問えば、鎌本は何も聞かされていないのか不思議そうに背後を示す。
「もう来てます」
「ミコト、タタラが――」
少女は何かを訴えようとしてすぐに喋っている場合ではないというふうに口を閉じると、ぐいぐいと周防の手を引いてバーHOMRAへ歩き始めた。こどもの手にはやや余る重さのどっしりした扉だけは周防が手を伸ばして開けてやれば、小動物のように隙間から入り込んで左手のソファへと駆け寄っていく。
「おい」
店内は暖気に満ちていて、内装のイメージとはまるでそぐわない匂いに満ちていた。やわらかな出汁のかおりは朝にだけたまに満ちる。
「おう」
ドアの開閉音に気づいたのか、奥から出て来た草薙は手にしていた鍋をそのままカウンターの内側に置いた。
「お早いお帰りやな、尊」
呼び出した張本人がよく言うと口にしても煙にまかれることは経験上わかっていたので、ただ肩を竦めてみせてからアンナの後ろからソファを覗きこんだ。そこには、そのソファを自分の寝床と定めている十束多々良がいつものように頭からすっぽりと毛布をかぶって丸くなっていた。息苦しくないのだろうかと見る度に疑問には思うものの、尋ねたことはない。ただ、眠っている間に顔を隠したがる理由は知っていた。
「タタラの赤が消えそうなの」
つついたらその弾みで泣き出しそうな顔で見上げてくるアンナの頭をそっと押し戻す。周防が感じることができるよりももっとはっきりクランズマンの内にある赤を見ることの出来るのなら、その視界に映る十束の様子は本当に酷いに違いなかった。
たしかに十束は普段から寝息もろくに立てずに本当に生きているのか心配になるほど静かに眠るけれども、今日はいつもよりはるかに気配が薄い。アンナが不安がるのも無理はなかった。
「心配しなくていい。ただの貧血とかガス欠みたいなもんだ」
「ほんとうに大丈夫? タタラ、いつもの『へーき』っていうのも言わない」
毛布の端を握る拳が、力の入れ過ぎでか白くなっている。
「『へーき』だ」
なるべくやわらかく聞こえるように声をかけて、小さな手をほどいて場所をかわる。ただ被っているだけの毛布を剥ぐと、血の気が引くあまり白を通り越して青にみえる顔が出てきた。
「真っ青やん。大丈夫なんかほんとに」
いつの間にか更に後ろに立っていた草薙が、さすがに顔を顰めて十束の顔をのぞき込んでくる。
「だから呼んだんじゃねえのか」
「丸まってるこいつに下手に手を出したらおきるやろが。見てへんよ。アンナがお前を探しに行こうとするの止めるの大変やったし」
返事も来いへんしと言われてようやく何のリアクションもしていないことを思い出す。
「忘れてた」
「アンナが風邪引いたらお前のせいやからな」
「わたしは、大丈夫。それよりも、タタラ」
促されて、白い喉に手を当てた。掌の下でとくとくと血が流れていることにほっとしながらも、周防は自分のなかから炎を呼ぶ。
気を抜くと赤色が象徴するまま一切の破壊をもたらすそれを実際の熱や炎に変えることなく、点滴を打つようなイメージでゆるやかに送り込む。十束の意識があれば奔流そのままを流し込んでも構わないのだが、気絶しているに近いこの状況では一歩間違えるとあっという間に暴発してしまうから、あくまで穏やかに血液が体内に巡るように、熱をまわす。
数分もしない内に十束の顔色は普段の白さを取り戻した。頬にもわずかに赤みがさす。ついでに血の気が引いていたせいで冷えきっていた体をある程度温めてから、周防は掌を離した。
「こいつ、この状態で一人で帰ってきたのか?」
今までに十束がこういうふうに倒れた時のことを周防は知っている。たとえ意識があってもまともに動ける状態ではないはずだった。
「伏見が言うには誰かに送られてはきたらしい。ナンバーは伏見が覚えてくれとったが……既に十束が口止めしてる」
「……元気じゃねーか」
青白かった顔はその駄目押しのせいかと思わず手をあげたら、アンナにすぐに袖を引かれた。
「タタラ起こしたらだめ」
真面目な顔で見上げてくる少女の頭を代わりに柔らかく撫ぜる。
「そうやってごまかすのもだめ」
困り果てて草薙へと視線を移すと、処置なしと言わんばかりにややおおげさに肩を竦められた。こういう時にはとりなしてくれる十束は未だに意識を失わせたままだ。仕方なしに浮かせた手を草薙へと向けるも、軽くよけられた。
「八つ当たりせんなや。――まあ、やましいんやろな、なんかが」
伏見にひねりなく口止め頼むぐらいやし、と言いながら草薙は十束の方にかがめていた体を起こす。
「とりあえず雑炊つくってあんねん。緊急性があるもん片付いたなら、とりあえず食おや」
気の利く鎌本によって既にカウンターには人数分の用意がされていた。十束の容態について特に聞いては来ないのは緩んだ空気を察しているからだろう。
全員で並んで、草薙が出汁から丁寧にとったのだという雑炊をすする。周防の徹夜明けの胃にはその滋味は優しく染みた。ようやく外套を脱いだアンナは、やはり眠いのかどこか動作が緩慢だ。朝早く叩き起こされたはずの鎌本は食事を前にしているからかしゃっきりとしている。草薙もほとんど寝てない割に背筋はまっすぐ伸びていた。
全員をたどった所で、周防は先程名前を聞いた内の一人がいないことにようやく気づいて首を傾げた。
「伏見は?」
運ばれてきた十束を受け取ったはずだ。
「相変わらず一睡もしてないっていうんで鎌本と入れ違いに帰した」
「あいつも大丈夫なのか」
ダメかもねと明るく宣言した割に、なにかにつけ十束がまめに構うので、周防も伏見が陥っている現状については何となく知っている。もう少し詳しく把握している草薙はその問にうーんと顔をしかめた。
「睡眠薬やってプラセボ渡してはみたけどあいつにはきかんやろなあ……」
「伏見、昨日何時頃来たんすか」
「閉店後やな。あいつ煮詰まってるやろ。十束が八田に会う時間に来んなって言い含めてんねん」
「えっ、どうやってっすか」
ぎょっとした風の鎌本に草薙はすげなく肩を竦める。周防も、その時間には店にいることが多く、伏見が顔を出すことこそ知っていたが、その前にあったやり取りについては殆ど知らない。
「十束に聞き。俺は知らん。ああ、伏見といえば十束乗せてきた車のナンバー調べたらな」
「――だんまりじゃなかったのか」
「伏見は話通じるからな。あいつが喋らんでも調べる手段はあるし」
ちょおっと手順省いただけやと嘯く草薙を軽くねめつける。
「で?」
「宗像って知ってとるか?」
「たまに聞くな」
あまりいい評判じゃないなとつけたせば同意が返ってきた。お前が覚えてるくらいやしなと付け足された言葉にはなんと返すべきかわからず、誤魔化すように手元のレンゲでやや冷めてきた雑炊を掬う。
「とにかく、そこの坊の送迎によく使われてる車のようや。ただ、伏見は外には出んかったから本人がいたかどうかまでは見んかったとはいうてた」
「あるいはそっちこそが口止めの本命か、だな」
あれだけ青ざめていてもそういう手だけは抜かりなく打つのが十束だ。
周防の言葉に草薙もあっさり同意する。
「そっちやろね。十束やし。伏見もあっさり喋りよったし」
「タタラは……嘘つきなの?」
ずっと黙って大人たちの話を聞いていたアンナがふと首を傾げた。
「嘘つきのほうが質はいいな」
それが嘘だと思えばわざわざ全てを疑うより端から信じなければいいだけだ。厄介なのは、十束は嘘をつくぐらいなら黙りこんでなかったことにしてしまうところだ。
「十束はほんと喋れんからなあ……多分頭ではわかっとるとは思うんよ。ただ、もう飲み込むことが身に染み付いてるんやろなあ。言うてしもうていいのにいつまでも遠慮しいや」
§
十束の分を別にとりわけた鍋の中身を鎌本が食べ尽くす頃には、アンナはスツールに座ったままふらふらと眠りに落ちかけていた。体が傾ぐたびに周防や草薙が支えて転落だけは防いでいるものの、本人は意固地に眠くないと言い張りスツールを降りようとしない。
「アンナ、いいかげんにせいよ。おとなしく上で寝とき。本当ならまだ寝てる時間や」
何度目かに受け止めたときに、草薙はアンナの頬を柔らかくつまんだ。
「でも」
「十束ならしばらく起きねえよ」
「目ぇ覚ましたら呼ぶし、寝や」
左右から念を押されて、アンナはようやく頷いた。
「……眠くないけど、わかった」
「はいはい。鎌本、つれてってやり」
言質は取ったとばかりに草薙はアンナを抱き上げると、そのまま鎌本へと手渡した。
「あ、はい」
危なげない様子で少女を受け取った鎌本はそのままカウンター脇の階段へと消える。草薙と十束の手が空かないときに大抵アンナを引き受けているため、戸惑うこともない。
「たのんだでー」
「で、尊? 帰ってくんのが遅かったんのはなんでや」
「寄らなきゃなんねえとこがあったんだよ。無駄足だったが。で?」
「で?」
「わざわざ鎌本もおっぱらってなんかいうことあるんじゃねえのか」
「ああ。十束のあれはなんや? お前知っとったんやろ」
「草薙には自分で言えって言っておいたぞ」
「それで十束が素直に言うなんて思ってなかったやろが。建前はおいといて、こんなことがあるかもぐらいの振りはしとかんかい。アンナがすごい心配しとったのに気休めも言えんかったわ」
「すまん」
「あとで十束と二人まとめて説教や。それからな、どっちかって言うとこっちが本題やけど、アンナが十束を「見る」のを嫌がるのは知ってるか」
「いや」
「ビー玉握っては離す、いつものように床に転がしかけてはすぐやめる、の繰り返しやったようや。俺がこっちついたときにはもう外套着込んで外におったんやが」
「前に、見たことあったよな」
「最初に櫛名センセにつれられたきたときやな。あの十束にもう二度と見たくないとあのアンナに思わせるようななんかがあったんか?」
「あいつの内側が真っ黒だったらあんなふうには懐かないだろ」
「せやろな。すると、嫌なことに答えの予想がつく訳や。――十束が今倒れてんのはほんとになんもないんやな」
「ない。単なる力の使い過ぎだ」
「なんやて?」
草薙の声が跳ね上がるのを無視して、十束の傍に戻る。
「尊? 叩いたらあかんよ」
「叩かねーよ。起きろ、たぬき」
「たぬきなんてひどいなあ、キング」
「いつから起きてた」
「うーん? アンナが『起こしたらだめ』ってかばってくれたので目が覚めたか――いたたたた痛いよキング」
「いわんかったのはなんでや」
「アンナに秘密ねっていっちゃったから」
「なあ十束。今日に限ってこっちきたんはなんでや?」
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