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ホメオスタシス不全
適応不能
夜と朝の境目の気配が残る街を周防尊は足早に歩く。サウナで流した酒気の残り香をすべて洗い流してくれるような冷えた清涼な空気は、街中ではこんな冬の早朝にしか出会えない。タバコを咥えているわけでもないのに流れる白い息に辺りの本当の寒さを想像してみようと思っても身の内に抱えた火は容易く収まるわけはなく、逆に意識したことによって余計に体温が上がって吐き出す蒸気が増えて視界が遮られた。
思わず舌打ちをしつつも、歩く足を緩めないのは急ぐ理由があるからだ。
目的地への最後の角を曲がり、バーHOMRAの看板を視認すると同時に、その前に立っていた人影に驚いて思わず足が止まる。
「アンナ?」
まだ早朝といって差し支えのない時間帯だ。少女の普段の起床時間よりまだ一時間以上早いのに、彼女はしっかりと防寒具を着込んで鎌本力夫と並んでたっていた。
「ミコトっ」
櫛名アンナはまっすぐ走ってくると躊躇いなく立ち止まっていた周防に飛びつく。全身で体当たられても年端もいかぬ小さな体を抱きとめるのはたやすく、勢い余ってぎゅうぎゅうとしがみついてくる身体を支えるために背中に手をそえると、どれだけ外にいたのか鮮やかな赤のコートはたっぷりと冷気を帯びていた。
「どうした」
落ち着かせるのが先かと身の回りに暖かな空気を作って少女を覆い、その背を撫でながら、後ろからついて来た鎌本に視線を向けた。赤のクランズマンは基本的にその体内に火を持つからか、王である周防を筆頭に冬でも薄着で過ごすものは多いけれど、アンナは数少ない例外のほうで、少しばかり特殊な目を持つために火の扱いはうまくない。鎌本はといえば、火力そのものはよわいものの扱いは器用で、アンナが震えていた様子もないのは何かしらの方法で暖めていたのだろうという推測はついた。
「どうもこうも、どういうわけか外で待つって聞かなくて……早く帰ってきてくれてよかったっす」
「草薙は」
まだ日が昇るかどうかぐらいの時間にただ一言「帰れ」とだけ送ってきた張本人である草薙出雲の姿がないことに眉をひそめて問えば、鎌本は何も聞かされていないのか不思議そうに背後を示す。
「もう来てます」
「ミコト、タタラが――」
少女は何かを訴えようとしてすぐに喋っている場合ではないというふうに口を閉じると、ぐいぐいと周防の手を引いてバーHOMRAへ歩き始めた。こどもの手にはやや余る重さのどっしりした扉だけは周防が手を伸ばして開けてやれば、小動物のように隙間から入り込んで左手のソファへと駆け寄っていく。
「おい」
店内は暖気に満ちていて、内装のイメージとはまるでそぐわない匂いに満ちていた。やわらかな出汁のかおりは朝にだけたまに満ちる。
「おう」
ドアの開閉音に気づいたのか、奥から出て来た草薙は手にしていた鍋をそのままカウンターの内側に置いた。
「お早いお帰りやな、尊」
呼び出した張本人がよく言うと口にしても煙にまかれることは経験上わかっていたので、ただ肩を竦めてみせてからアンナの後ろからソファを覗きこんだ。そこには、そのソファを自分の寝床と定めている十束多々良がいつものように頭からすっぽりと毛布をかぶって丸くなっていた。息苦しくないのだろうかと見る度に疑問には思うものの、尋ねたことはない。ただ、眠っている間に顔を隠したがる理由は知っていた。
「タタラの赤が消えそうなの」
つついたらその弾みで泣き出しそうな顔で見上げてくるアンナの頭をそっと押し戻す。周防が感じることができるよりももっとはっきりクランズマンの内にある赤を見ることの出来るのなら、その視界に映る十束の様子は本当に酷いに違いなかった。
たしかに十束は普段から寝息もろくに立てずに本当に生きているのか心配になるほど静かに眠るけれども、今日はいつもよりはるかに気配が薄い。アンナが不安がるのも無理はなかった。
「心配しなくていい。ただの貧血とかガス欠みたいなもんだ」
「ほんとうに大丈夫? タタラ、いつもの『へーき』っていうのも言わない」
毛布の端を握る拳が、力の入れ過ぎでか白くなっている。
「『へーき』だ」
なるべくやわらかく聞こえるように声をかけて、小さな手をほどいて場所をかわる。ただ被っているだけの毛布を剥ぐと、血の気が引くあまり白を通り越して青にみえる顔が出てきた。
「真っ青やん。大丈夫なんかほんとに」
いつの間にか更に後ろに立っていた草薙が、さすがに顔を顰めて十束の顔をのぞき込んでくる。
「だから呼んだんじゃねえのか」
「丸まってるこいつに下手に手を出したらおきるやろが。見てへんよ。アンナがお前を探しに行こうとするの止めるの大変やったし」
返事も来いへんしと言われてようやく何のリアクションもしていないことを思い出す。
「忘れてた」
「アンナが風邪引いたらお前のせいやからな」
「わたしは、大丈夫。それよりも、タタラ」
促されて、白い喉に手を当てた。掌の下でとくとくと血が流れていることにほっとしながらも、周防は自分のなかから炎を呼ぶ。
気を抜くと赤色が象徴するまま一切の破壊をもたらすそれを実際の熱や炎に変えることなく、点滴を打つようなイメージでゆるやかに送り込む。十束の意識があれば奔流そのままを流し込んでも構わないのだが、気絶しているに近いこの状況では一歩間違えるとあっという間に暴発してしまうから、あくまで穏やかに血液が体内に巡るように、熱をまわす。
数分もしない内に十束の顔色は普段の白さを取り戻した。頬にもわずかに赤みがさす。ついでに血の気が引いていたせいで冷えきっていた体をある程度温めてから、周防は掌を離した。
「こいつ、この状態で一人で帰ってきたのか?」
今までに十束がこういうふうに倒れた時のことを周防は知っている。たとえ意識があってもまともに動ける状態ではないはずだった。
「伏見が言うには誰かに送られてはきたらしい。ナンバーは伏見が覚えてくれとったが……既に十束が口止めしてる」
「……元気じゃねーか」
青白かった顔はその駄目押しのせいかと思わず手をあげたら、アンナにすぐに袖を引かれた。
「タタラ起こしたらだめ」
真面目な顔で見上げてくる少女の頭を代わりに柔らかく撫ぜる。
「そうやってごまかすのもだめ」
困り果てて草薙へと視線を移すと、処置なしと言わんばかりにややおおげさに肩を竦められた。こういう時にはとりなしてくれる十束は未だに意識を失わせたままだ。仕方なしに浮かせた手を草薙へと向けるも、軽くよけられた。
「八つ当たりせんなや。――まあ、やましいんやろな、なんかが」
伏見にひねりなく口止め頼むぐらいやし、と言いながら草薙は十束の方にかがめていた体を起こす。
「とりあえず雑炊つくってあんねん。緊急性があるもん片付いたなら、とりあえず食おや」
気の利く鎌本によって既にカウンターには人数分の用意がされていた。十束の容態について特に聞いては来ないのは緩んだ空気を察しているからだろう。
全員で並んで、草薙が出汁から丁寧にとったのだという雑炊をすする。周防の徹夜明けの胃にはその滋味は優しく染みた。ようやく外套を脱いだアンナは、やはり眠いのかどこか動作が緩慢だ。朝早く叩き起こされたはずの鎌本は食事を前にしているからかしゃっきりとしている。草薙もほとんど寝てない割に背筋はまっすぐ伸びていた。
全員をたどった所で、周防は先程名前を聞いた内の一人がいないことにようやく気づいて首を傾げた。
「伏見は?」
運ばれてきた十束を受け取ったはずだ。
「相変わらず一睡もしてないっていうんで鎌本と入れ違いに帰した」
「あいつも大丈夫なのか」
ダメかもねと明るく宣言した割に、なにかにつけ十束がまめに構うので、周防も伏見が陥っている現状については何となく知っている。もう少し詳しく把握している草薙はその問にうーんと顔をしかめた。
「睡眠薬やってプラセボ渡してはみたけどあいつにはきかんやろなあ……」
「伏見、昨日何時頃来たんすか」
「閉店後やな。あいつ煮詰まってるやろ。十束が八田に会う時間に来んなって言い含めてんねん」
「えっ、どうやってっすか」
ぎょっとした風の鎌本に草薙はすげなく肩を竦める。周防も、その時間には店にいることが多く、伏見が顔を出すことこそ知っていたが、その前にあったやり取りについては殆ど知らない。
「十束に聞き。俺は知らん。ああ、伏見といえば十束乗せてきた車のナンバー調べたらな」
「――だんまりじゃなかったのか」
「伏見は話通じるからな。あいつが喋らんでも調べる手段はあるし」
ちょおっと手順省いただけやと嘯く草薙を軽くねめつける。
「で?」
「宗像って知ってとるか?」
「たまに聞くな」
あまりいい評判じゃないなとつけたせば同意が返ってきた。お前が覚えてるくらいやしなと付け足された言葉にはなんと返すべきかわからず、誤魔化すように手元のレンゲでやや冷めてきた雑炊を掬う。
「とにかく、そこの坊の送迎によく使われてる車のようや。ただ、伏見は外には出んかったから本人がいたかどうかまでは見んかったとはいうてた」
「あるいはそっちこそが口止めの本命か、だな」
あれだけ青ざめていてもそういう手だけは抜かりなく打つのが十束だ。
周防の言葉に草薙もあっさり同意する。
「そっちやろね。十束やし。伏見もあっさり喋りよったし」
「タタラは……嘘つきなの?」
ずっと黙って大人たちの話を聞いていたアンナがふと首を傾げた。
「嘘つきのほうが質はいいな」
それが嘘だと思えばわざわざ全てを疑うより端から信じなければいいだけだ。厄介なのは、十束は嘘をつくぐらいなら黙りこんでなかったことにしてしまうところだ。
「十束はほんと喋れんからなあ……多分頭ではわかっとるとは思うんよ。ただ、もう飲み込むことが身に染み付いてるんやろなあ。言うてしもうていいのにいつまでも遠慮しいや」
§
十束の分を別にとりわけた鍋の中身を鎌本が食べ尽くす頃には、アンナはスツールに座ったままふらふらと眠りに落ちかけていた。体が傾ぐたびに周防や草薙が支えて転落だけは防いでいるものの、本人は意固地に眠くないと言い張りスツールを降りようとしない。
「アンナ、いいかげんにせいよ。おとなしく上で寝とき。本当ならまだ寝てる時間や」
何度目かに受け止めたときに、草薙はアンナの頬を柔らかくつまんだ。
「でも」
「十束ならしばらく起きねえよ」
「目ぇ覚ましたら呼ぶし、寝や」
左右から念を押されて、アンナはようやく頷いた。
「……眠くないけど、わかった」
「はいはい。鎌本、つれてってやり」
言質は取ったとばかりに草薙はアンナを抱き上げると、そのまま鎌本へと手渡した。
「あ、はい」
危なげない様子で少女を受け取った鎌本はそのままカウンター脇の階段へと消える。草薙と十束の手が空かないときに大抵アンナを引き受けているため、戸惑うこともない。
「たのんだでー」
「で、尊? 帰ってくんのが遅かったんのはなんでや」
「寄らなきゃなんねえとこがあったんだよ。無駄足だったが。で?」
「で?」
「わざわざ鎌本もおっぱらってなんかいうことあるんじゃねえのか」
「ああ。十束のあれはなんや? お前知っとったんやろ」
「草薙には自分で言えって言っておいたぞ」
「それで十束が素直に言うなんて思ってなかったやろが。建前はおいといて、こんなことがあるかもぐらいの振りはしとかんかい。アンナがすごい心配しとったのに気休めも言えんかったわ」
「すまん」
「あとで十束と二人まとめて説教や。それからな、どっちかって言うとこっちが本題やけど、アンナが十束を「見る」のを嫌がるのは知ってるか」
「いや」
「ビー玉握っては離す、いつものように床に転がしかけてはすぐやめる、の繰り返しやったようや。俺がこっちついたときにはもう外套着込んで外におったんやが」
「前に、見たことあったよな」
「最初に櫛名センセにつれられたきたときやな。あの十束にもう二度と見たくないとあのアンナに思わせるようななんかがあったんか?」
「あいつの内側が真っ黒だったらあんなふうには懐かないだろ」
「せやろな。すると、嫌なことに答えの予想がつく訳や。――十束が今倒れてんのはほんとになんもないんやな」
「ない。単なる力の使い過ぎだ」
「なんやて?」
草薙の声が跳ね上がるのを無視して、十束の傍に戻る。
「尊? 叩いたらあかんよ」
「叩かねーよ。起きろ、たぬき」
「たぬきなんてひどいなあ、キング」
「いつから起きてた」
「うーん? アンナが『起こしたらだめ』ってかばってくれたので目が覚めたか――いたたたた痛いよキング」
「いわんかったのはなんでや」
「アンナに秘密ねっていっちゃったから」
「なあ十束。今日に限ってこっちきたんはなんでや?」
> 怖いものの話
怖いものの話
SB既読前提。宗像でねたりねなかったりみたいな話というリクエストのはずだった……はずだった……
宗像礼司が『ねないこだれだ』という絵本の本当の怖さを理解し得たのは随分と後のことで、こどものころは部屋の明かりを消したあと何かよくわからないまま「怖いもの」を無邪気に待っていた。それがきてくれれば、きっと自分はわからないものもわかるようになるのだと信じていた。
§
昼は百余人がそこかしこで稽古を繰り広げる活気ある場所である椿門は事件もない夜は、寝ずの番のいる場所を残して明かりを落とし、静かな眠りに入る。都心にあるにもかかわらず狭くはない敷地は建物と建物の間の隙間も広く、そこかしこに深い闇を抱く。その合間を縫った先にある敷地のはずれの道場は今日もどこへともなく大きく開け放たれていた。
その中には鬼が座している。宗像の知らない「怖いもの」を知っている鬼だ。
「こんばんは」
声をかけても反応は帰ってこない。鬼はただ静かに息をして、夜の静寂と同化しているからだ。だから宗像もそれ以上コミュニケーションを取ろうとはせず、以前はパズルを並べていた一角に同じように座り込む。
明かりもないなか、目を閉じて夜気を深く吸い込めば風呂で暖めたはずの体があっというまに冷えていくのがわかる。
以前は、こういう夜にはもう一人が、いた。今はもう亡い青年は宗像に恐れを抱きつつも、いつも訪れる上司を歓待の言葉とともに迎え入れ、鬼との間に立っていつも稽古をしていた。
§
人は、わからないものが「怖い」のだというのを知って、その「わからない」ものを探して傍に置いた途端に失い、それに安堵した時、宗像はようやく己の「怖いもの」の正体を知った。
宗像は、欠けていないものが怖かった。
自らが再編し、作り上げた傷ひとつないはずの組織で、おそらく一番欠けてはならないものがまっさきに失われたことによってより完璧になったことによって理解し得た「怖いもの」は、たしかに「怖かった」。
> インデペンデンスデイ
インデペンデンスデイ
Happy Birthday!
ぽかりと深海から水面に浮かび上がるように周防尊が穏やかな眠りから目を覚ますと、ベッドサイドにもたれて座っていると思しき十束多々良の見慣れた後頭部が視界に入った。一定の間隔で揺れているところをみると、珍しくも気が緩んでいるらしい。左耳についた金属の輪がうまい具合に光を反射して、ふらふらと頭が揺れるたびにその輝きが刺すような鋭さで瞳孔に入り込んできて思わず目を逸らす。
部屋は薄明るくて、かろうじて夜ではないことはわかるものの朝なのか昼なのかもよくわからない。寝転がったままそっと感覚を研ぎ澄ませてみれば、階下はいつも以上に騒がしく、どたばたと騒いでいるというよりも何か模様替えとかそういう物を大きく動かすような作業をしている気配がする。階下のバーがそんなふうにごたごたすることはたまにあって、大抵はなんかしらの集まりに応じた貸切営業の時だということはさすがに知っていた。いつもは何をやらかしても多少の小言で勘弁してくれるバーのマスターであり、オーナーであり、古い付き合いの友人でもある草薙出雲が、そういう日だけは表から帰ってくるなと何度も念押しするからだ。だから大抵は外で飲み歩いてなるべく気にしなくてもいい明け方に帰ってくるようにしている。
しかし、いつもなら前日からしつこいほどいい含められるのに、昨日は何も言われた記憶はないし、日が高いのに叩き起こされてもいない。傍らで寝こけている十束がなにか言伝を預かっているのかもしれないとも思ったが、草薙が周防に絶対に言うことを聞かせたいことがあるときに十束を通すことはない。それに、店としての準備に追われているなら、ふらふらとしている印象が強いとはいえれっきとした階下の店員でもある十束を、決して労働力にはならない周防の傍においておくこともないはずだ。十束自身もどんなところでもほいほい寝てしまうとはいえ、労働を放棄してまでうたた寝することはない。
少しだけ考えてはみたものの特に思い当たることもなく、十束も寝ていることだし心置きなく二度寝を貪ろうと目を瞑ってから、かすかに漂う甘い香りに気づいて反射的に身を起こした。
「うおっ」
小さな頭は周防の大きな手では簡単に掴めてしまう。
「どうしてここにいる」
「いだだだだ! 何!? キング?」
暴れ出されてすぐに指先に込めた力は緩めたものの、十束が離れて行ってしまえば話題をごまかされることはわかっている。逃げ出せない程度には掴んだままで、先程のå問いをもう一度繰り返した。
「どうしてここにいる」
「どうしてって、いちゃいけないの?」
拗ねたような口調で頭にしがみついた指を剥がそうとするのは無視する。
「今日は来ないと言ったのはお前だ」
正確には「来れないと思う」と十束はいい、「ゆっくりしてきいや」と応えたのは草薙だ。周防は昨日の開店前に交わされた雇用者と被雇用者というよりも、保護者と被保護者のような二人の会話をカウンターで酒を飲みながら聞いていただけで、直接は加わってはいない。日付を確認して、なるほどと思ったぐらいだ。
「行ってきたんだろ、今日」
「……キング、ちゃんと聞いてたんだ? っていたい、いたいってば」
掌の下でまたも十束がじたばたと暴れるがもちろん離す気はない。
「十束」
「――行ってきた。朝一で区役所とあと裁判所。笑っちゃうほど簡単だった」
十束多々良は、今日、二月十四日に二十歳になった。
§
さすがにおとなしくなった十束が、すっかり落ち着いた口調で離してと言うので迷いはしたものの、掴むのをやめてただ掌を頭に乗せる。
いつもなら放っておいても好きなように喋る十束が迷うように言葉を選ぶのをじっと待つ。
数年前、十束の養父が死んだときのごたごたは、周防がかかわるまえに草薙がさっさと手配した弁護士があれこれ引き受けたのと、十束自身が喋りたがらなかったためにほとんど聞いていない。おおよそのことが収束した頃に、いつか時間を取って欲しいと言われ、その「いつか」については言及がなかったために記憶の片隅に引っかかっていたぐらいだ。
今がその「いつか」であるのだろう。十束は振り向かず、周防の掌を頭に載せたままかすかに首を傾げた。
「俺ね、捨てられた時のことも、拾われた時のこともあんま覚えてないんだ」
「……三才んときのことなんか俺も覚えてねえよ」
十束の来歴は一度だけ聞いたことがあった。本人があっけらかんと語ることに惑わされたが、他人のやることにはあまり興味を持たない周防ですらその一つ一つが顔をしかめるようなエピソードだった。
「あはは、そうだよね。でも俺はあの人の奥さんが出て行ったときのことも覚えてない。小学校はあがってたはずなんだ。何日もふたりともいなかったけど、給食があってよかったって思ったから」
冷蔵庫はあんまりものはいってなかったしねと十束が笑いながら膝を抱える。
「あの人が死んだ時にさ、草薙さんが紹介してくれた弁護士さんがあれこれ調べてくれたときにもね、まったく思い出せなかった。名前聞いても顔を見てもピンとこなくて……俺ってば薄情だよねえ」
それを薄情というのは何か違うのではないかと思うも、うまく言葉は見つからなくて周防はただ十束の頭を撫ぜた。
「養子縁組ってね、夫婦が離婚しても両方との縁が残るんだって、俺も知らなかったけどあの人の奥さんも知らなくて、最初に弁護士さんとこに連絡入ったときにすっごくののしられたみたい。でも、後見が必要っていっても俺は高校通ってたわけじゃないし、二十歳になったら他人に戻ることにして、後見自体は弁護士さんとこにお願いしてね」
「ああ」
「今日、離縁届だすためにこっちにきてもらってね、謝られたからなんも覚えてないから気にしないでって言ったら、あの人の奥さんが泣いたんだよね。捨てていくようなことをして悪かったっていうんだ。俺には本当にどうでもいいことなのに」
心底不思議そうにする十束に、その奥さんとやらの気持も何となく分かるとはさすがに言うのは控えた。その後の経緯はどうあれ、最初は純粋に引き取ったであろうこどもに形だけでも母とも呼ばれずまったくの他人として扱われて何も思わないような人間は、きっと最初からかわいそうなこどもに関わろうとはしない。
「あの人が死んだ時のことも、動転しててごめんなさいっていわれたけど、それが本心なのはわかるっていっても泣かれた。って、痛いよキング」
さらさらと語りながらも逃げようとする十束の頭を再び鷲掴む。
「わざとだろ」
十束は基本的に中庸だ。何もかもが基本的には気に障らないから、何もかもに平等に接するし、わざわざ人の感情を波立てることもないし、逆に抑える側に回ることのほうが多い。草薙が十束の好悪を判断基準のうちの一つに使うのは、十束が他人にちゃんと反応すること自体が珍しいからだ。敵意を返されても面倒だという言い分の元、人を言いくるめることを選択することも多く、攻撃性を持つほどの対応をするのは本当に滅多にないのだ。そのかわり、一度牙を向いたらどこまでも容赦なく言葉でえぐる。
十束は自分からは周防や草薙の――というよりも吠舞羅の面子の前ではそこまでしてみせることはないが、それでも耳に入ってくることはある。吠舞羅最弱の幹部という蔑称ではなく、その名を口にしてはならない毒としてひそかに噂される蛇の舌。相手の激情を引き出す時点で、十束の言葉には作為しかない。
「――薄情だって言われたことは恨んでないんだ。実際、俺は薄情だしね。泣かれたときにだって、あなたが先にそれを望んだんでしょう、って思った。だって俺にはどうでもよかった。記憶にもない親子の絆なんて知らない。あの時拾ってあげなかったらって言われても、その後に捨てたくせにどうしてそんなこと言えるの」
「言ったのか」
「言わなかった」
十束は頑なに振り向かない。周防の掌を頭に載せたまま、抱えた膝に顔を埋めてちいさくなって震えている。左耳のリングが小刻みに揺れて光を弾く。
「俺は何も言えなかったんだよ、キング」
暫く無言で頭を撫でていたら、くぐもった声でなんでって聞かないのと十束がいった。下手な誘導どころかいっそ珍しいほどのド直球に思わず口の端が緩む。
「なんで」
「アンナぐらいのこどもがいるんだって。いつだか見捨てた時の俺ぐらいで、実際にちゃんと、毎日、こどもと向き合ってたら、どうして、あの時見捨ててしまえたの、か、自分がわからないって、言われたんだ」
ところどころ詰まる声のことにはふれず、周防は、ただ、そうかと相槌を打つ。
「俺も、ちゃんと寂しかったって言えたら良かった」
「言わなかったのか」
「嘘なんかつけないもん。寂しいのも楽しいのも嬉しいのも悲しいのもちゃんとおぼえたのはキングに会ってからだよ。手にしたものをなくすのが怖いなんて初めて思った」
捨てられないからと、いろんなガラクタをバーHOMRAに持ち込んでは草薙を嘆かせているとは思えない発言に、これを聞かせたらあの小言は減るだろうかと思わず考える。
周防も草薙も、周防に逢う以前の十束を知らない。ふわふわとなんにも執着せずにいたというこどもを知らない。周防にとって十束は最初からキングと呼んでまとわりついてくる聞き分けの無いガキだった。寂しさも怖さも知らないまま笑うこどもじゃなかった。
「だからね、やっぱりあの人との養子縁組も解消することにした。遺産相続なんてあってないようなものだったし、他に親類とかいるわけじゃないんだけど、紙切れ一枚でしかつながれない絆は要らない」
「そうか」
「うん。死んだ人との離縁はね、あの人の奥さんとの間みたく簡単には行かなくて家庭裁判所に調停に行かなきゃいけないし、さすがに時間かかるみたいだから本当に一人になるまではもうちょっとかかるけど、一人じゃないから」
「ああ」
載せたままだった手で、乱暴に髪をかき混ぜれば、今度こそ十束は周防の脇から這うようにして離れていく。ぐしゃぐしゃになった髪を整えながら壁にすがって立ち上がり、ドアノブに手をかける。
「十束」
「なに?」
赤くなった目元は隠しながらも、十束はようやく振り返ってまっとうに周防に顔を向けた。さすがにあれこれ一気にぶちまけたのが気恥ずかしいのかどことなく拗ねた表情を浮かべている。
「誕生日おめでとう」
「――うん」
虚をつかれたようにぽかんとしていたのは一瞬で、すぐにくしゃりと顔がゆがむ。
「ありが、と」
目の淵に浮かんだ光るものは、指摘したら逆上されそうだったので見なかったことにした。
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