> 結局のところ、それは
結局のところ、それは
答えなど出したくない
 最初は冗談じゃないと思ったはずの共同生活にも何とか慣れてきた六月のある日、神宮寺レンが部屋に帰ると床一面に色とりどりの布が広がっていた。それも、気の食わない同居人のためのスペースのみならず、全体に満遍なく、だ。邪魔になりそうな家具は部屋の片隅に寄せられていて、床は平坦に馴らされている。
「おい、聖川」
 いくらなんでも領域侵犯にもほどがあると目を向けた先に佇んでいる同居人は、レンの机の傍で腕を組んで悩み事に没頭しており、こちらに気づく様子もない。戸口まで布が侵食しているせいで足を踏み入れることもできないまま待っていたら、やがて、何かを決めたように一人で頷いてようやく顔を上げた。
「ああ、おかえり、神宮寺」
 普段は気にくわない相手に使う愛想はないと言わんばかりに素っ気ないが、部屋でこうして顔を合わせた際の挨拶だけはしっかりとよこす。その振る舞いに触れる度に、聖川財閥の跡取りとしてではなく、ただ身近な誰かに愛情を込めて育てられたのだろう躾の良さが垣間見えることに何とも形容し難い苛立ちを覚えて、レンはまともに返答したことはない。
 十七年生きてきて、自分が怒りっぽい性格だと思ったことはない。むしろ、どちらかといえば鷹揚な方だと信じていた。何もかもを失ったような気分になった二年前からは、殊更に何もかもがどうでも良くなった。早乙女学園に入れられることになった時も面倒だと思っただけで反抗までは至らなかったのは、円城寺以外の誰もレンを顧みなかった家の中で、何かに対する期待はすでに摩耗しきっていたからだ。
 幼い頃に一度は手にしたはずの小さな宝物すら、気がついたときには掌の中から消えていた。
「反物ばかり広げて、呉服屋でも開業するのかい?」
 久々に顔を合わせたその時に、胸の奥をざらりとした苦い何かが撫でていったことはまだ昨日のことのように覚えている。ぐちゃぐちゃの、あえて名前も付けたくない感情がまだ自分の中に残っていたことに、驚いた。
 蓋をして閉じ込めて見なかったことにするには、それはあまりにも根深くて、結局は持て余してただ放置している。
「まさか。いつものように持ってきてもらったのだが、広げる場所がないことを失念していた。すまない。すぐに片付ける」
 お前が帰ってくる前に終わらせるつもりだったと言いながら時計に目をやって、同居人はようやく今の時間に気づいたらしい。
「もうこんな時間だったのか」
 ぼけた発言に肩を竦めてみせると、素直に謝罪の言葉を吐いて広げた反物を手際良く畳み始めた。
「もしかして、終わるのを待っていてくれたのか」
「声はかけたぜ。ただ、誰かさんは何かに一生懸命で気づいてくれなかったようだがね」
 何も言わずとも優先的にまずレンのスペースからものを引き上げて、移動させていた家具を手際よく再配置していく。まとめた反物はじゃまにならないよう隅においてあった箱に丁寧にしまわれた。幾つかベッドの上に残されているのが選んだものなのだろう。白地に赤い金魚が泳いでいるオーソドックスなものから、紺地に白く染め抜かれた流紋が映えるものまでバリエーションが広い。
「しかしずいぶんと可愛らしい柄ばかりだけれど、お前が着るのかい」
「まさか。真衣のために決まってるだろう。生地を見立てるのは毎年のことなんだが、今年は俺は家を出たからか真衣が拗ねていてな……」
 困ったような口調ながらも浮かべる表情がどこか甘いのは、なんのかんの言いながらも歳の離れた妹を目に入れても痛くないほどかわいがっているからだと知っている。
「――下の子がそんな風に慕ってくれるのなんて今のうちだけなんだから、頻繁に帰ってやればいいじゃないか」
 ぼんやりと何も考えずにこぼした言葉の意味を振り返ったのは、声をかけた相手に不思議そうに首をかしげられたからだ。
「お前、末っ子じゃなかったか?」
「一般論だよ、聖川」
 どろどろの、抱え込み続けていることにも疲れて放棄してしまいたい記憶を、それでも後生大事に抱えている理由なんてとっくに自覚していた。
 何も疑うことなく預けられた小さかった掌を覚えている。打算だらけの場所であったはずなのに、ただ一緒にいるだけで嬉しくて楽しかった幼馴染。
「すこしでも離れていると、子供はすぐに大きくなるぜ」
「神宮寺?」
 何をしたわけでもないのに疲れきってた体を寝台に横たえれば、すぐに意識は闇に沈んだ。
 だから、レンはそれ以上のことは関知しない。
 どれだけ目を瞑ろうとしてもあるものからは逃げられないと知っているだけで、十分だった。
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