> へし切長谷部、大倶利伽羅親戚説
へし切長谷部、大倶利伽羅親戚説
相州伝もちょっと
十三世紀半ばの北条家に依る名工選にほとんど相州(相模)のものの名が上がらず、しかし幕府膝元でそれはなかろうということで、備前から三郎国宗、一文字助真、京都から粟田口国綱が移住してきたことに端を発して、その国綱の子、新藤五国光の門から相州伝の基礎が築かれ貞宗、広光、秋広と続いて仕上がった(大倶利伽羅の出身)。
一方のへし切長谷部は古刀長谷部派の祖、長谷部国重作刀だが通称の異説が非常に多く、大和出身説が多いが、後に鎌倉に下り相州正宗に入門したのち、京都に定住した。国光に改名した説もあるが、新藤五国光の長男あるいは弟とする説があり、実際に国光と国重の親子関係は「相模国鎌倉住人長谷部国光」と切ったものがあるところから成立するのではないかと見られている。というところをひねったもののよう。遠戚といえば遠戚……?おじよりはとこのがなんとなくしっくり来る感じが個人的にはする。
相州伝は、貞宗、広光、秋広が華麗なものに仕上げたが、折れやすいという非難に対する反省から、その後のいわゆる末相州物が堅実な作風に転じたため、鑑賞上の評価は低下したってあったのが個人的にちょっと面白かったです。

なおこの国綱さん、後鳥羽上皇が隠岐島にいるときに御番鍛冶をし、鎌倉に移住したあと鬼丸(天下五剣)つくったひと。
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