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雨、そして雨
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大倶利伽羅の経緯
伊達に来てから出るまで
『日本刀よもやま話』の記述
徳川家康が慶長4年(1599年)、政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させたその三年後、江戸城の城壁修築を命じられ(人員423,179名、黄金2,676枚)の返礼として与えられた(なお伊達忠宗へ大倶利伽羅一振りと、家老伊達成実に着物一枚)。
当時の大倶利伽羅の折り紙は金50枚。なお、幕末時に100枚になる。
『日本刀大百科事典』の記述
元和六年(1620)に竣工した江戸城石垣修築による褒美。政宗は在国中だっただめ、11月21日に嫡子である美作守忠宗を呼び出し、将軍秀忠より与えた。
貞享四年(1687)4月29日、研ぎのためか本阿弥家に来たので刃長を測った。
将軍家から拝領時にすでに50枚の小札がついていたが、安永7年(1778)12月に百枚の下札に格上げになっている。
見事な刀ごしらえがつけてあり、目貫は後藤光乗作で代金6枚、小柄は後藤宗乗作で三枚の折紙で、ともに延宝9年(1681)3月7日付。
明治17年8月、仙台から東京に移され、関東大震災の被害もうけなかったため昭和九年に重要美術品指定を受ける。ただし、戦後は同家をでている。
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