> 伊達家事情
伊達家事情
刀剣の所在
太鼓鐘貞宗が明治十六年、大倶利伽羅が明治十七年に川内から東京の伊達家に移動してる模様。同じように伊達家伝来の宇佐美長光は明治維新後伊達男爵家に移るとしか書かれてない

なお、その東京の伊達伯爵邸についての記述は以下
http://www.77bsf.or.jp/business/quarterly/no33/senjin.htm

大倶利伽羅はおそらく青葉城にずっといたけどそれは250年ちょっとで(東京にうつってる分ははぶく。1620-1884)、鶴丸の献上時機を明治9年に設定して、伊達家入りを1704に設定しても170年ちょい同居してたので、年数もだけど年数に比率する割合がながかった。
 
> 鶴丸国永の拵え
鶴丸国永の拵え
名前の由来とか
名物鶴丸のハバキに竜胆がはいってる、というのは、もとは村上源氏の家紋である竜胆紋を太刀の鞘、太刀の金具、ハバキに透かしで、などだったもよう?ハバキに入ってるっていうのは伊達家のほうの書付に残ってるっぽい 太刀の鞘の方も複数に記述あり。
竜胆丸ともやはりよばれていたもよう。ただ竜胆丸は竜胆丸で別にあったと見る説のほうが有力。あと墓に入ってたのでは説がのってるや、これ。そこからきた異称が、陵あるいは陵丸。中国の故事もあるけど風習的にやっぱり埋葬されたのではってある……。良く無事だったな。
あと藤森の某家にあって藤森神社の神事にかしてたってはなしはあるけど藤森神社に奉納されてたって話ではなさ気なんだよなあこれ。北条氏がどっかで神社に奉納して、その時に鶴丸の紋の拵えを付けて(奉納時に鶴を付ける恒例があった)奉納したのをどっかで信長が召し上げたのだろう、とある。
鶴丸の名は奉納時についたんじゃないかってあるね。

伊達家に来た直後に、同家の定紋、引両入りの金具つけてもらって、鞘にも同じ紋蒔絵にした太刀拵をつけてもらったそうな。

献上時に研ぎ直しをされているけれど、その時期については明治九年とする説と明治三十四年とする説がある(前者のが有力のようだが根拠が見つけられない)。
 
> 相州伝の広光について
相州伝の広光について
名前の由来とか
広光のなまえは、まだ名前決めてない頃に提出した刀の出来が良かったけど無銘でだしたので、理由を聞かれてまだなまえないってこたえたら、じゃああげようかって考えてる最中に狐が「コーコー」ってないたからそれを漢字にした。
細川幽斎がのこした「天文目利書」の記載による。

貧乏で弟子に給金?だせなかったから広光って銘刻んでやったりしてたらしい。
(広光の名は既に売れていて、銘があれば売れたため。これを恩銘の広光という)
 
> へし切長谷部、大倶利伽羅親戚説
へし切長谷部、大倶利伽羅親戚説
相州伝もちょっと
十三世紀半ばの北条家に依る名工選にほとんど相州(相模)のものの名が上がらず、しかし幕府膝元でそれはなかろうということで、備前から三郎国宗、一文字助真、京都から粟田口国綱が移住してきたことに端を発して、その国綱の子、新藤五国光の門から相州伝の基礎が築かれ貞宗、広光、秋広と続いて仕上がった(大倶利伽羅の出身)。
一方のへし切長谷部は古刀長谷部派の祖、長谷部国重作刀だが通称の異説が非常に多く、大和出身説が多いが、後に鎌倉に下り相州正宗に入門したのち、京都に定住した。国光に改名した説もあるが、新藤五国光の長男あるいは弟とする説があり、実際に国光と国重の親子関係は「相模国鎌倉住人長谷部国光」と切ったものがあるところから成立するのではないかと見られている。というところをひねったもののよう。遠戚といえば遠戚……?おじよりはとこのがなんとなくしっくり来る感じが個人的にはする。
相州伝は、貞宗、広光、秋広が華麗なものに仕上げたが、折れやすいという非難に対する反省から、その後のいわゆる末相州物が堅実な作風に転じたため、鑑賞上の評価は低下したってあったのが個人的にちょっと面白かったです。

なおこの国綱さん、後鳥羽上皇が隠岐島にいるときに御番鍛冶をし、鎌倉に移住したあと鬼丸(天下五剣)つくったひと。
 
> 手装備事情
手装備事情
規則性は特にみられなかった
手甲:石切丸、今剣、平野藤四郎、厚藤四郎、前田藤四郎、乱藤四郎、五虎退、蛍丸、蜻蛉切(+手袋)、江雪左文字、小夜左文字、加州清光、大和守安定、歌仙兼定、和泉守兼定、山姥切国広、山伏国広、堀川国広、同田貫正国、太郎太刀(+手袋)、次郎太刀、御手杵(+指貫)
手袋(黒):岩融、にっかり青江、鳴狐、薬研藤四郎、燭台切光忠、大倶利伽羅(丈短)、獅子王(丈短)
手袋(白):一期一振、骨喰藤四郎(鼠色)、へし切長谷部
指貫:鶯丸、鶴丸国永(変形)
素手:鯰尾藤四郎、秋田藤四郎、愛染国俊、宗三左文字(袈裟の裾を固定してる)、陸奥守吉行、蜂須賀虎徹

片手か両手かの記載してないけど手袋だいたい両方だし、手甲はだいたい片手
 
> 大倶利伽羅の経緯
大倶利伽羅の経緯
伊達に来てから出るまで
『日本刀よもやま話』の記述
徳川家康が慶長4年(1599年)、政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させたその三年後、江戸城の城壁修築を命じられ(人員423,179名、黄金2,676枚)の返礼として与えられた(なお伊達忠宗へ大倶利伽羅一振りと、家老伊達成実に着物一枚)。
当時の大倶利伽羅の折り紙は金50枚。なお、幕末時に100枚になる。

『日本刀大百科事典』の記述
元和六年(1620)に竣工した江戸城石垣修築による褒美。政宗は在国中だっただめ、11月21日に嫡子である美作守忠宗を呼び出し、将軍秀忠より与えた。
貞享四年(1687)4月29日、研ぎのためか本阿弥家に来たので刃長を測った。
将軍家から拝領時にすでに50枚の小札がついていたが、安永7年(1778)12月に百枚の下札に格上げになっている。
見事な刀ごしらえがつけてあり、目貫は後藤光乗作で代金6枚、小柄は後藤宗乗作で三枚の折紙で、ともに延宝9年(1681)3月7日付。
明治17年8月、仙台から東京に移され、関東大震災の被害もうけなかったため昭和九年に重要美術品指定を受ける。ただし、戦後は同家をでている。
 
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