足りない 01(にゃんちょぎ/女体化/現パロ)
■プロローグ
「猫殺しくん、結婚してほしい」
山姥切長義がそう切り出してきたのは、冷たい風の吹きすさぶ真冬のカフェテラスでのことだった。
苦節一時間、ようやく話を切り出すことに成功した幼馴染が真顔で南泉一文字を見つめてくるのを目を伏せて躱しながら、溜息をどうにか噛み殺す。
昼日中のテラスは燦々と陽が照っているとはいえ気温が低いせいで、周囲に人はいない。店に入ったときに迷わず無人のテラス席を希望した女に応対した店員は言葉を尽くしてなんとか決意を変えさせようとしていたが、一度決めたことはそうやすやすとは覆さない山姥切長義はもちろん今日も自分の意志を通したのだ。連れである南泉一文字には店員からのちらちらと救いを求める視線が寄越されていたのだが、この頑固な幼馴染の説得などという無駄なことに労力を使う気はなかったので気づかないふりをして背後で話がつくのを待っていた。
突拍子もないところから彼女が口火を切ってしまったのはそのつけだろうかと話の緒が開かれるのを待っているうちに湯気も立たなくなったマグカップを傾ける。
暖かかった飲み物は冷めてしまったというだけでどうしてこうもまずいのだろうとこっそりと溜息をついて、一息で空にしたマグカップをトレイに戻す。
「誰とだ」
「俺とだよ、猫殺しくん。君はそんなに察しが悪かったかな」
あれほど口を開くのを躊躇っていたくせに間髪入れずに帰ってきた言葉に、ふうんと思う。
小学五年生で彼女と初めて出会ったときには、これほど長い付き合いになるとは思っていなかった。第一印象が悪すぎたのだ。
けれど、共に過ごすうちに彼女は美しくて、高慢で、やることなすこと手を抜くことを知らないのに面倒がりで、気を許した相手の前だと隙だらけになることを知ってしまった。
今だって、人に聞かれたくない話をするだけならこんな吹きさらしの場所でなくたって、どちらかの部屋であってもいいはずなのだ。しっかりと厚着をして防寒をしてこいという念押しもいらないし、暖かい店内に誘導しようとする店員と戦う必要もいらない。
それでも逃げ場のない家ではこんなふうに改まった話をしづらかったのだろう。個室のあるようなカフェやレストランだとなおさらで、明後日の方向に考えた結果がおそらくこのカフェテラスだ。さすがにやましかったのか防寒に関してはくどいほどに念を押されたので、手持ちの中で一番暖かい大学の卒業旅行と称して冬のヨーロッパへ赴いたときに買い込んだダウンコートを身に着けてきたのだが、彼女もまたその時のダウンコートを着ていた。特に意匠を揃えて買ったものではないのだけれど、事情を覚えているだけにペアルックのようにも思えて妙におかしい。わざわざ確認するつもりもないが、おそらく幼馴染も気づいている。他人が気づくはずもないことだから普段なら気にしないはずなのに、珍しくも顔を歪めていたので少し不思議に思っていた。そんなふうに人に知られていなくとも自分たちだけがわかることというのは他にもたくさん降り積もっていて、それを言葉にしないまま互いに許し続ける意味を考えなくなってからはもう随分と経ってしまった。
「言葉にしておくのは大事だろぉ」
コミュニケーションの基本は会話だろうと、わざとらしく肩を竦めせてみせれば、山姥切長義はぐっと押し黙った。
言葉を流暢に操るくせに、彼女は会話が下手だ。目の前に話す相手がいるとき、言葉以外にも表情や仕草、その他諸々全てを使ってコミュニケーションするはずなのに、その読み取りがそもそも致命的に出来ないし、人に自身のことを悟らせることもない。本人も自覚はしていて、人とのやり取りはメールで済ませることが多いし、大事なことほど誤解を恐れて面と向かって相手に告げることは殆どない。どうしても必要な時は綿密に言葉を用意して臨むがそれもあまりうまくない。
案の定、南泉一文字の切り返しに、用意していた言葉が尽きたらしい山姥切長義はごまかすために手元のマグカップを覗き込んで眉根を寄せた。話が切り出されるのを待っていた南泉一文字とは逆に、口を開くための潤滑油がわりに一口飲んではトレイに戻して時間稼ぎに使われていたせいで中身は既にないのだ。
途方に暮れて再び顔を上げてこちらへと視線を戻す彼女に、今度は隠さず溜息を一つついた。
こんなにわかりやすいのに、とはさすがに今は人には言わなくなった。
振り返って店の中に視線をやると、寒い中でテラスに居座り続ける客に気を向けてくれている店員とすぐに目があって、手を上げてみせるだけ新しく湯気のたったマグカップが二つ運ばれてきた。あらかじめ頼んでおいたわけではないのだが、面倒な客に対してよく気を配ってくれてありがたい。
おかわりのお持ちでよろしかったでしょうかとの問に、まったく問題がないと答えて軽く二人で頭を下げれば、いつでも店内にお入りくださって大丈夫ですと帰ってきて更に頭を下げる。
空のマグカップを回収した店員が去っていってから、山姥切長義は手袋を外したままでこころなしかこわばっている掌で湯気の立つマグカップに無防備に手を伸ばして、すぐに弾かれたように離した。
「馬鹿か、冷え切ってんだろ」
「――わかってる」
唸りながらもそろそろともう一度陶器へと触れようとするのを取り上げて、胴にくるりとハンカチを巻きつけて手元に戻した。手袋をしておけばいいのにとは思うものの、店内でその手のものをつけっぱなしでいられるたちでもない。
「ありがとう」
布地越しでも暖かさは伝わるのか、幼馴染が素直に感謝の言葉を寄越すのを無言で頷いて受け取った。
彼女がそういうときに言葉を惜しむことはない。それでも、幼馴染が飲み込んでしまう言葉は減ることがない。多少の水を向けてやれば、嬉々としてある程度は喋り始めるけれど、そこに南泉一文字が欲しい物が含まれることはないのだ。
勢いのために酒に頼ろうとはしない誠実さには感嘆するけれどもと今度はこっそりと溜息をつく。あからさまにはしないのは、今ただでさえ過敏になっている彼女が更に怯えるからだ。
「それで、なんだって?」
自分の前にあるマグカップは放置したまま、とんと指でテーブルを叩く。
両手でマグカップを包んだまま動く様子のない山姥切長義の様子に、このまま再び中身が消えるまで待っていたら、確実に風邪引きが二人生産されてしまう。どれほど暖かい格好をしていても、寒いものは寒いのだ。
南泉一文字が示した端緒に明らかにほっと顔を緩めてみせた幼馴染へもう一度溢れかけた溜息を今度は飲み込む。
彼女が意図したように流されてしまうのはやさしくて、簡単で、楽だ。
でも、それは南泉一文字が望むところでは、ない。
余計なことを言ってしまわないように、幼馴染とは逆に口を噤むために自分のマグカップを引き寄せた。
はぐらかしてはみたものの、何を言われるのかはわかっている。かといって、何もかもを飲み込んで優しく出来たタイミングはもうとっくに過ぎ去っていた。
一口だけ中身を飲んで、山姥切長義と顔を合わせれば、彼女は緩んだ頬をもとのように引き締め直して姿勢を正した。
「俺と、結婚してほしいんだ猫殺しくん」
真顔だけれどもどこかそわそわとしている幼馴染に返す言葉は、実のところ、ずっと前から決めていた。
■
山姥切長義にとって実家からの呼び出しの連絡ほど馬鹿馬鹿しいものはない。長年に渡る攻防の結果、最近では消極的な誘いとおそらく本題であろう伝えたい近況報告という内容に落ち着いている。
小学五年生で出てから一度だって帰ったことのない場所を実家と呼称しなければならないことは癪に障るのだが、それでも実家は実家で親は親という事実は消えない。書類上だけでも強硬に縁を切ってしまうほどの嫌悪感を抱いているわけでもない。あえて言うなら、関心がない、につきる。
高校生の頃はいずれ繋がりを何もかも切ってしまいたいと躍起になっていたのだが、当時の保護者たちにのらりくらりとかわされ続けているうちに、どうでもよくなった。その転機に一役買った幼馴染にはいろいろと思うところはあるものの、この件に関してだけは面と向かって伝えたことはないが感謝している。
だから、その日の日付が変わる前にようやく仕事から帰宅して、立ち上げたパソコンが実家の近況報告メルマガの到着を報せてきても、その中身を読んでも、思いの外なにも感じなかった。
予想していたよりはずっと遅かったなとは思った。いつもなら受け取るだけで特に返信などはしないのだが、さすがに今回ばかりはそれも出来ず、本文に記された日付の予定を確認してから失念しないうちにとキーボードを叩く。挨拶などの手間も省いた用件だけのメールだが、相手に誤解なく伝わればそれでいいものだ。
それから、鞄にしまいっぱなしだった携帯端末を取り出してまずはかつての保護者である燭台切光忠に一報を入れた。もう遅い時間だからと通話を避けたのにすぐに着信音がなって、メールではなく着信であることと、液晶に浮かぶ名前に驚いて慌てて応対する。
「もしもし」
『こんばんは、遅くにごめんね』
柔らかな声が耳元で響く。最近は忙しさにかまけてろくにメールさえしていなかったので、やや後ろめたい。成人してもう十年以上経っているし、必ず定期的に連絡を取らなければならぬ相手というわけではないのだが、進学のために育った家を出たときからなんとなく続いている習慣だった。
「そんな、こちらこそ遅くにごめんなさい。お久しぶりです」
『正月に会ったばかりでしょう』
くすくすと笑う気配にまだ一月経ってもいなかったのかと相手に見えないとわかっていても肩を縮めた。
「そうなんだけど……」
普段からまめに連絡を入れているので間隔が開くとどうしても気になるのだが、電話の向こうは気にした様子もなく楽しげだ。
『それに、南泉くんも先週こっちに帰ってきていたから、正直ほんとにそんなに経った気がしないんだ』
「ああ、そういえば見たような……」
年明けからこちら、忙殺されていたから詳しくは確認していなかったが、共用して使っているいるスケジュールツールに遅い正月休みによる帰省の記載があったことを思い出す。
もともとはお互いの家に入り浸りがちだった学生時代にアルバイトなどの予定を共有するために使い始めたのだが、シンプルで多機能なそのツールはなんとなく止める時を見失って今でも二人で共有したまま使っている。最近は、一人で夕飯を食べたくないときなどに改めて予定の確認が必要なくて、重宝していた。
『うちに顔を出してくれたときに残ってたお餅全部持っていったからそのうち連絡あるんじゃないかな。結構量があったから独り占めはしないようにねっていっておいたし』
「うん。ありがとう」
年末から年始にかけて帰省した際にもそれなりの量をもらったのだが、繁忙期の餅は手軽な食事として優秀でもう殆ど残っていない。そろそろ底をつく備蓄を補充する頃合いだと思っていたのでとても嬉しい。
遅い時間なこともあり、燭台切光忠とはそのままいくつか世間話だけして通話を切った。きっかけとなった事柄については何の言及もなかったなと思うも、どうしても話したかったというわけでもない。まあいいかと流すことにした。
それよりも、幼馴染が残っていたという餅を全部こちらに持ってきている方が問題だ。耳に当てたせいで曇った端末の液晶を雑に拭いてから、慣れた連絡先を呼び出した。
声が聞きたい気持ちもあったが、気づけば日付も変わっていて、幼馴染相手には適度になかったことにしがちな常識もさすがに働く。どちらかといえば宵っ張りの相手がまだ寝ていないだろうことは確信していても、だ。
文面はすぐに出来上がった。
――やあやあ、猫殺しくん。何か隠していたり忘れていたりすることはないかな。独り占めするなと言われているものとか。
誤字脱字も確認せずにぽちっと送信して端末をスリープさせる。
こうして幼馴染に連絡を入れるのも思えば久しぶりだ。動向はスケジュールツールで垣間見える分、普段からまめに遣り取りをする間柄でもない。
そもそも、こんなに付き合いが長くなるとはおそらくお互いに思っていなかった。
それどころか、最初はさっさと縁を切ってやると考えていた。
§
初めて南泉一文字に会ったときのことはよく覚えている。
小学五年生にあがるまえに家を出ることになった事情は、だいぶ割り切れるようになったと思う今でも腹立たしさしか覚えない。
一人で行くのだと聞かされた地名のことは知っていた。父の実家のあるところではあったが、年をとった祖父母は既に郷里を出ていて、家には誰もいない。まさか一人暮らしかと思ったけれど、さすがにそれは許されなかった。
預かり先は長船の本家に依頼したのだと父は言った。
長船の家は血縁に関係なく行きどころを失ったこどもを引き取ることがそれなりにあり、多少血が薄くてもいっときの預かりなら拒まれないのだという。
丁度、年度の変わり目がちかく、山姥切長義の家の事情も合わせて、その話が出て一週間もしないうちに引っ越すこととなった。
そのあまりの早さは、詳しい事情を何も知らされないただの小さな子供だった時分には、捨てられたという感覚が拭えなかった。
ふてくされた気分のまま、長時間自宅を離れることの出来ない父に空港までは送ってもらい、一人で飛行機に乗り込んだ。こどもの一人旅に手厚いフライトはまあまあ快適だったが、到着した空港まで迎えに来てくれた本家の人間である燭台切光忠に連れられて訪った場所は、数度だけ訪問したことのある長船の本家ではなかった。長船の家に身を寄せるとしか聞いていなかったとはいえ、本家と様式が違うものの同じかそれ以上に大きく、まるで威圧されているようにも感じるこの和風建築の屋敷がどこか別の分家とも思えない。
「あの、ここは?」
特に問答もなく車ごとするりと門を抜けてきたところを鑑みれば、まったくの知らぬ家というわけではないことはわかるけれど、それだけだ。
「一文字さんのおうち。僕としては本当は長義くんにはうちに来てもらうつもりだったんだけど、ちょっと頼まれてしまって」
隣に座る黒い眼帯で右目を覆っている美丈夫が心底残念そうに溜息をつく。
「事情を聞いたら無下にもしづらくて……ただ、長義くんが嫌なら断るから遠慮しないでね」
まかせてという彼に頷きながらもそんなことはしないと胸のうちだけで応える。自分に選択肢があたえられたとしても、家でない場所ならどこでも同じだ。
車寄せで下車して、トランクに入れてもらった荷物を受け取ろうとしたら、そっと玄関のほうへと背中を押された。
「あの?」
「荷物は運んでもらうから大丈夫。ごめんくださーい」
声をかけただけでからりと大きな引き戸を開けて入っていく燭台切光忠のあとに続いていいのか戸惑っていたら、奥からでてきて愛想よく迎えてくれたのはなぜか顔見知りの長船の縁戚のうちの一人だった。
「小豆さん?」
「ひさしぶりだね。まっていたよ」
一文字というのも長船の系譜だっただろうかと、乏しい記憶を漁ってみても、祖父母がこの地を離れてからは本家に顔を出すこともなかったのでわからない。
とりあえず、久しぶりに会う親類に頭を下げた。ただでさえ背が高い相手なのに、この玄関口は広くて、上がり口も高いので仰け反るように見上げないと目線も合わない。
「お久しぶりです。おじゃまします」
「こんごはただいまでいいんだよ。ほんとうはこちらからひとをだすべきだったんだが、みしらぬものがむかえにいくよりも燭台切のほうがいいのではということになってね」
にこにこと穏やかに小豆長光が応える。動きやすいラフな服装に、名前と豆に顔と手足がついただけのキャラクターがプリントされたエプロンをつけていて、まるでこちらの屋敷で働いているようだ。話はさっぱり見えないが、なんにせよこちらの屋敷に世話になることは大人たちの間ではもう決まっているのだということだけはわかった。断るつもりもなかったけれど、当然のように話されるのもそれはそれで癪に障るし、感情を簡単に波立たされてしまう自分にも腹が立つ。
「とりあえずこのいえのあるじにあいさつにいこうか」
「よろしくお願いします」
南泉一文字と遭遇したのは、屋敷の主のところへと案内されている道中のことだった。
正確には、南泉一文字がその道中の廊下を駆けてきたのだ。布をたっぷりと使ってひだを作り出すタイプのふんわりとしたワンピースに、金色の巻毛がきれいな顔を縁取っていて、精巧に作られた人形のようだった。ただ布地があちこち破れていたり、髪に木の枝や葉が絡まっていて、美しい造形を台無しにしている。
その、山姥切長義と同じ年頃に見えるこどもは向かいからやってきた大人二人とこどもに気付くとすぐさま踵を返そうとしたが、それよりも小豆長光がその腕を捕まえるほうが早かった。あまりに素早い対応に、これが日常なのだろうなと伺わせる何かがある。
捕まったこどもはじたばたとなんとか抜け出そうとしたものの、肩に担ぎ上げられてからは抵抗を諦めてだらんと力を抜いた。その様子が猟師に捕まった獣のようでおかしさにそっと笑いを噛み殺す。しかもこちらが笑ったのがわかったのか、金と緑が混ざったような不思議な虹彩が睨んできたが捕まっている相手がそうしてきても余計におかしいだけだ。
「みぐるしくてすまないね、長義」
「いえ」
小豆長光に謝られても、逆にどこか清々しささえ覚えて首を横に振る。傍らでは燭台切光忠が遠慮なく笑っていて、つられて顔に出してしまわないように気を引き締める必要があった。
「噂には聞いていたけど元気だね」
「おかげさまでね」
それからは誰とすれ違うこともなく、目的の部屋へと辿り着いた。あちこちで曲がりながら随分と歩いたので、もうひとりでは玄関に戻れる気がしない。
「はいるよ」
こどもを担いだまま小豆長光が足を踏み入れ、山姥切長義もあとに続き、最後に燭台切光忠が入って後ろ手に襖を閉めた。
中にいたのは銀のジャケットを羽織った、顔に入れ墨のはいっている随分と迫力がある白銀の男性で、思わず息をのんだ。
「やあ、来たか」
彼は開いていた本を閉じてすっと立ち上がると、小豆長光から差し出されたこどもを受け取り、にこやかに笑う。そうすると最初の胸元に挿しているサングラスがこの上なく似合うという印象よりもぐんとやわらかな雰囲気になるのが不思議だ。
広い和室には絨毯が敷かれていて、背の低い背もたれのついた椅子とテーブルがいくつかおいてあった。応接室のようなものなのだろうかと思う。
「のみものをよういしてくるけれど、きぼうはあるかな」
「私はいい。あまり長い話にはしないから、後で部屋に届けてやってくれ。長旅で疲れただろう」
慌てて首を横に振ったが、そうだとしても見知らぬ場所というのは疲れるものだと言われてしまえば否定し続けるのも大人げない気がして身を竦める。朝は早かったし、親から離れてたったひとりでこんな遠くまできたのははじめてのことだ。
短いとはいえ立ち話もつかれるからと、椅子を一つ勧められて座る。ふわっとすっぽり包まれるよう座り心地でとても気持ちがいい。
片腕に抱えたこどもも降ろすのかと思えば、そのまま膝の上に乗せてとなりの椅子に座ったので驚いた。おとなしくしていると本当に人形にしかみえないが、先程の攻防をみるに手を離すとあっという間にどこかへと逃げていくのかもしれない。燭台切光忠も勝手知ったるように適当な椅子に座り、小豆長光だけは山姥切長義に何を飲みたいか確認して部屋を出ていった。
「はじめまして、私は山鳥毛。この度は一文字の都合に付き合って貰うことになって申し訳ないがとてもありがたい」
だらんとしたこどもを抱えたまま彼が深々と頭を下げたので、山姥切長義も慌てて倣うように頭を下げる。
「山姥切長義です」
それから先にこれを、と渡されたのは薄い板状の通信端末といくつかの鍵だった。
「恥ずかしながら、この家はとかく古くて広いのでね……慣れぬ間は誰もが迷うものだから対策として用意している」
普通に端末として使っても構わないと言われながら促されて、スリープを解除してから画面の一番上にあったお屋敷の形のアイコンを触ると家の平面図が画面に映し出される。中心部にぴかぴか点滅する丸いマークが表示されていて、おそらくこれが現在地だろう。談話室とのラベルが付いている。他の部屋の名前もわかりやすく一覧できるようになっていた。試しに一つ選んでみれば現在地からの道順がすっと浮かび上がる。
「これを見てもわからなくなったら遠慮なくこのアイコンからコールしてほしい。手の空いたものが案内に向かう」
まさかそこまでと困惑を覚えながら見上げれば、どう見ても冗談や酔狂で言っている顔ではなかった。
「いいか、誰もが迷う。助けは躊躇わずに呼ぶことだ。それから、迷ったときのために申し訳ないがそれなりに現在位置の確認は行わせてもらう」
「はい」
マップ全体を縮小させて家全体の広さを確認してしまったので逆らう気も起こらず素直に頷くと、厳しい表情を浮かべていた顔が少しほころんだ。それだけで場が華やいだと感じるのだから面白いと思う。
「それから、鍵は君の部屋と、この家の正面玄関と勝手口、それから二箇所の通用門のものだ。出入りは自由にしてくれて構わないといいたいのだが、今は少しこちらの事情があって、家の敷地から出かけるときは護衛付きになることを了承してほしい」
「ごえい?」
馴染みのない単語に聞き間違いかとまず思った。普通に暮らしているとまず聞かない単語に戸惑う。長船の家にもいなかったはずだ。ただ訪ったことがあるのは今よりも幼い頃だったし、本家の人にどこかへと連れて行ってもらうことなどなかったから気づかなかっただけという可能性は捨てきれないけれど、少なくとも今日の燭台切光忠にはそれとわかるようなものは控えていなかったと思う。
「こちらに着くのは明日だから今日はまだ紹介できないのだが……」
「いえ、待ってください。なんで護衛が俺に?」
「我が家の恥なのだが……今相続でごたついているのだ。さすがに無関係のこどもに手を出すほどの下衆ではないはずなのだが、大事な預かりものだし念には念を入れたい」
静かな低い声に籠もる熱に気圧されて、おとなしく頷くと、ほっとしたように山鳥毛が笑う。
彼の腕の中のこどもは気づけば目を閉じてくたりとしている。眠っていると判じるには息の感覚が短いから起きているのだろうと見つめていたら、ふっと目を開けた。黄色に緑が混ざったような色彩が光の入り具合で金色にも見える。
それからすぐに小豆長光が盆を片手に戻ってきたので、なるほどこれに反応したのかと思う。
「おわったかな」
小豆長光は部屋に入ってくると、山鳥毛と燭台切光忠の前にそれぞれグラスを置き、デキャンタを一つ据え、それから山姥切長義の前にもグラスを一つ置いた。中身は麦茶だと告げられて、ありがたくかたむけたらあっという間に器は空になる。自覚はないままずいぶんと乾いていたようだった。
「そうだな……だいたいは。ああ、そうだ。夕食には食堂まで来れるだろうか。部屋で一人で食べるのでも構わないが」
部屋から距離があるのだが、と山鳥毛が言うのを遮って首を横に振る。
「伺います。運んで頂くのも申し訳ないので」
疲れているだろうからという心遣いはありがたくはあったが、初日から甘えてしまえば翌日以降の踏ん切りがつかなくなるだろうという予想はたやすくつく。
「そうか。なら、部屋に案内しよう。調度類はこちらで勝手に整えさせてもらったので、趣味に合わなかったり、サイズが合わなかったら遠慮なく申し出てほしい。椅子や机は念の為お父上に確認してもらったが」
「えっ」
家具の類をわざわざ実家から送らなかったのは確かだけれど、それは使っていたものにそれほど執着がなかったのでわざわざ持ってこなくてもいいかと思ったからで、それでも必要なものは明日以降に燭台切光忠か誰かに付き合ってもらって揃えるつもりだったからだ。思わず燭台切光忠を見上げるとすまなそうに顔を伏せられてしまった。たぶん、止めようとしたけど無駄だったと言うことだ。
「なにせ古臭い家で和室しかないのだが、布団は慣れぬかと寝台はいれておいた。これも、布団がよければ取り替える」
「いえ、あの……」
問題はそこではない。そこではないのだが、どこか楽しげにする佳人にそれ以上言い募ることは出来ずにそっと口を閉じた。
「荷解きはさせてないが、手伝いがいるなら――」
「いえ、けっこうですお構いなく」