echo request/echo reply 01(ついすて/イデアズ)
イデア・シュラウドを呼び出すためにアズール・アーシェングロットを介するものはさして多くない。学内に七人しかいない寮長同士であることは知られていても、二人が同じ部活動に所属していると知っているものは限られており、さらにその部活動で仲がいいとまで知っているものは概ね、応じてもらえるかはともかくとしてイデア・シュラウド自身に何らかの伝手を有していることが多いからだ。
だから、彼の呼び出しを教師であるデイヴィス・クルーウェルに頼まれた時、アズールは意外さに内心で首を傾げた。
「僕からですか? いくらイデアさんでも先生の呼び出しを故意に無視はしないでしょう?」
錬金術の授業終わりに呼び止められて告げられた用件を不思議に思いながらも、おとなしくスマートフォンを取り出してメッセージアプリを立ち上げる。かの先輩はたしかにできうる限り部屋へと引きこもろうとしているけれど、教師から授業へ生身で参加しろと言われたときにことさら反抗するようなたちでもない。ものすごくいやそうかつ時間ぎりぎりではあるものの、教室へとやってくる姿はアズールも見かけたことがある。
「授業じゃないんだが生身がご指定でな」
肩を竦める教師に、なるほどと頷く。ちょっとした呼び出しや、許されている授業はすべてタブレットによるリモートで済ませることに全力を傾ける相手を確実に生身で呼び出せるのは、テーブルボードゲームで遊ぶことを主眼に置く部活動だけだ。複雑なコンポーネントを実際に対面で遊べる相手がいるというのは格別だと、日中の授業を遠隔で受けていも、放課後になると部室に顔を出すことは珍しくない。
「今日の放課後でよろしいですか? 呼び出し先も部室で?」
「それで構わん。学園長室なんて指定したらお前相手でも来ないだろう」
「……いや、さすがに学園長室ならいらっしゃるんじゃないですか」
イデアが学園長に呼び出されること自体は珍しいことではない。アズールは彼がぶつぶつと不平をこぼしながらも出頭に応じているところに居合わせたこともある。
「生身指定が効くのは基本的には特許周りの契約関係があるときだけだな。普段は警戒されてタブレットでしかこない」
この歯切れの悪さは学園長がなにかしたのだろうなと考えながらも、指を動かして呼び出しの文章を打ち込む。口実はいくらでもあるので悩むことはない。誘い文句の最後にメッセージのやり取りをするときにだけ進めているブラインドチェスの指手を添えて送信ボタンを押す。続けてモストロ・ラウンジのグループチャットを確認して特にイレギュラーな事項が発生していないことを確認してから、本日のシフトリーダーへ開店前に顔を出せないことと連絡事項を伝える。
「ところで、人手はご入用ですか?」
「いらん。仔犬の一匹位、俺だけでどうとでもなる」
念の為に労働力の斡旋を匂わせてみたがあっさり断られたのでそれ以上は粘らずに、幼馴染のウツボ兄弟に放課後の予定変更の連絡を入れてから端末をスリープさせた。
「では放課後に部室の前でお待ちしていますね」
「前?」
怪訝そうに顔をしかめる教師ににっこりと笑ってみせる。
「危険なものはないんですが貴重なものは多くて、最近セキュリティを厳重にしてるんです、イデアさんが」
もちろん、アズールは部員として部屋へ出入りするので鍵を持っているが教師はその限りではない。職員室で保管されている基本の鍵だけで中へ入ることは不可能なのだ。
「卒業時には現状復帰するんだろうなそれ」
「さて。僕にはわかりかねます」
§
各所へと飛ばした連絡は無事に放課後までにはイデアも含めてすべて了承が帰ってきた。今日はイデアの受講科目はアズールよりも一コマ多いから部室へは先に辿り着ける。新年度、参考にしたいからと強請って見せて貰った先輩のカリキュラムはこういうときに役に立つなと思うのだが、クルーウェルが来るまでの間にどうしても物が多くて雑然としがちな室内を客を入れてもいいと思える程度に片付ける必要がある今はむしろ本末転倒とはいえ、イデアの労力が欲しかった。とはいえ、勤勉を冠する寮の寮長だけあってなんだかんだいいつつも彼が授業を自主的に欠席することはそうそうない。
ナイトレイブンカレッジのカリキュラムはいくつかの基礎魔法教科と実技科目以外に年次による取得制限はない。逆にいうと、基礎魔法教科の単位を取得できないと年次を上がることができない。レオナ・キングスカラーの留年事由はそこにある。とにかく必須科目の出席点がたりなかったのだとアズールは聞いたことがあった。
ただ、専門科目に関しては講座開講前に実施される試問の成績によっては受講資格どころか単位付与が認められることもある。イデア・シュラウドのリモート受講許可はこちらの制度を適応した結果だという。最低限の必修科目の履修が終わり、それなりにフレキシブルな受講が始まる一年次後期開始時の選択科目の試問結果で軒並み満点を叩き出し、面白がった教師陣(とイデアが称した)によりすべての試験を受けさせられた結果、単位数だけならその時点で卒業できるほどの認定が降りたらしい。そうはいっても基礎魔法教科と実技に関してはペーパーだけでは単位付与はできなかったため結果的に今のイデアが生身で受講しているのは基本的には実技を伴う科目と、彼が興味がわかないが必修である魔法史などの文系科目が中心だ。逆に得意科目となるとたまに教師から助手に徴収されていて、死にそうな顔で教室の端にいることもある。
それにしても、それだけ単位を取っていたら三年次には時間割も穴だらけにできるだろうにとアズールが訊ねれば、かの異才からはなんか楽しくなってきちゃってと返ってきた。勉強してるだけで存在価値が認められるのは今だけだしと、授業には出たくないというわりに受講科目は多い。先日聞いて驚いたのは、イデアのためだけに開講されている講座の多さだ。その内容の高度さにナイトレイブンカレッジの教師だけでは対応しきれず、彼一人のためだけに非常勤で招聘されている講師も複数いるのだという。つまり、そのために教師をこの辺境に呼び寄せるよりはとリモート受講が許されているらしい。
最初にこの話を聞いたときに意味がわからなすぎて三度ほど聞き直した。イデア自身は学校ってそういうものでしょと平然としたものだったが、アズールの知ってる常識とは違いすぎて、思わず寄付金の差なのかとついその辺の事象に詳しそうなクラスメイトのジャミル・バイパーを問い詰めそうになったが、直前で理性が働いたので、ちゃんとモーゼス・トレインに質問するだけでとどめておいた。己が利用できるかは置いておいて制度としてはちゃんと制定されている事柄だとしれたのは収穫だったように思う。
ただその受講数の分、試験期間はいつもイデアは物量に埋もれている。正確には試験期間前からレポートの波にのまれている。その時期になると非効率的ではといいながらも紙の文献を積み上げながら自室だけではなく部活動禁止期間前の部室でも執筆を始めるので、アズールは面白くない。ゲームを始めたらちゃんと向き合ってはくれるが、その前後は完全の上の空だ。
使えるものは使えるうちに使うというのはアズールも同意するところだが、誰もが使いたいものすべてを使えるわけではない。アズールの八本の自在に動く足で座学の学習は補えても実践魔法には向き不向きがある。通常なら素材追加のタイミングなどで複数人を必要とする高度な魔法薬の精製や錬金術の行使などは容易くとも、生来の資質に左右されがちな幻想魔法系はアズールの鬼門だ。イメージを正確に脳裏に描いて魔力を使うなどという不確かな解説は理解に苦しむ。魔法を使うことにかけて才能があるとしか言いようがない先輩は曖昧だからこそはっきり扱えるように訓練するんだよと嘯いていたが、アズールにはどうにも難しかった。
概ねどうにか物を寄せ終わったところで、ノッカーが来客を知らせた。内側から開けるにも一定の手順を必要とする扉を開いて、クルーウェルを中へと招き入れる。
「ここはチェス部だったか?」
くるりと部屋の中を見渡したクルーウェルがあちこちに置かれたチェスボードに目を瞬いた。
「昔は独立していたらしいですね」
必ず一定期間ごとにひとが入れ替わっていく定めにある学校の部活動にはよっぽどのことがない限りは詳細な履歴など残されたりはしない。アズールもかつてチェス部があったということを知っているのは、いくつもあるチェスボードに備品のありかを示すシールが貼られていたからだ。
「それにしても多くないか?」
チープな百マドルで買えそうなチップタイプから、ガラスで出来ていると信じたい美しい造形のセットまでどれもこれも中途半端に駒が載っているボードが部屋のあちこちに設置されているのは今がコンテストの真っ最中だからである。
「定期的にプロブレム作りが流行るんです。よく出来た物は雑誌に投稿して部費の足しに。今残っているのは検証中のものです」
部費の足し、というところでクルーウェルが顔を歪めかけたが、彼自身が顧問を務めるサイエンス部の無法地帯っぷりが即座に頭をよぎったのか賢明にも言及されることはなかった。
なおこのプロブレム制作大会は、解なしではないが一定期間誰にも解かれないものを作ったものがしばらく予算権限を握ることができる。つまり、欲しいボードゲームがあるものがプレゼンをかけて戦う場でもあるのだ。アズールもイデアもたまに参加しては勝利をもぎ取って欲しいボードゲームを購入している。年度の始まりに分配される学校からの予算が尽きてからが戦いの本番だ。勝ち残ったプロブレムを雑誌に載せてもらって掲載料を稼ぐところまでがセットになるため遊びの幅が減る。
「なるほど、貴重なものか」
優れた知恵は価千金にもまさると呟くクルーウェルは今のところ、ボードゲーム部の裏事情については見ないふりをしてくれるようだとアズールは笑みを深めた。
散らばっているチェスボードはたしかにいつもの光景なのだが、実のところいくつかは普段はしまってあるカムフラージュ用のセットと入れ替えたものだ。
チェスは長い歴史がある分、ただ遊べればいい簡易なものだけではなく、贅を尽くしたものも多いのだが、一昔前のものはさらに希少価値が高く、今となっては乱獲が禁止され作ることも許されないような材料が使われているものや、純粋に素材自体が希少かつ凝った装飾が施されているものもたくさんある。かつてあったチェス部はどうもそのコレクションにのめり込んだことがあったらしく、いくらナイトレイヴンカレッジが名門校といえども資産換算すると法外な値段のものがこの部室にはとても沢山あるのだ。
時間が経つ間にそれがどういうものかも失われ、深くは気にしないボードゲーム部の部員たちにあるものは使わないともったいないの精神で適当に扱われてきたのだが、ここ数年でその価値を知るものの入部によってその実態が表沙汰になった。
アズールの入学前なのでその騒動自体は直接は目にしていないのだが、真実を知った先輩たちの動揺は察してありあまる。アズール自身もボードゲーム部に入部して馴染んだあとに、実はとコレクションの実態を知らされて心臓が止まるかと思った。一局どうと先輩から気軽に差し出された美しいチェスセットの駒が、迷ったものしかたどり着けないという宵闇の森の国に棲んでいるという黒曜鹿の角と十年に一度しか行き来する道が開かないという天青の島でしか育たないが伐採が進みすぎて今は採取が禁止されている琥珀杉でできているだなんて誰が知れるというのだ。宵闇の森の国も天青の島も伝説ではなく実在するのだということすらその時に初めて知った。
しかも、そのレベルのものがいくつもあるのだ。部室の厳重すぎる鍵と入部後でもしばらく続いた警戒の理由は十分にわかった。価値がわからないものがいるのも怖いが、価値がわかりすぎるものがいるのも怖い。なんせどれもよく使い込まれているとはいえそもそも制作時に上質な状態保存の魔法がかけられているおかげで傷ひとつどころか駒の欠けひとつない完品で、価値のわかるところに持っていけば目が飛び出るでは済まないような金額がつく。この部室に来た経緯が違法性がないものであることを祈るばかりだ。
隠さずにおいてあるちょっとばかり透明度の高い美しいガラス細工だと思い込みたい駒のセットもやや言いづらい値段がつくらしいのだが、伝説級の素材を使っているわけではないし、コレクションの中ではマシな方だと言うことで普段使い枠である。最初はアズールも恐る恐る触っていたのだが、一年も経つ頃には先輩たちと同じように普通のチェスのように扱えるようになった。とはいえ部外者であるクルーウェルを招き入れるのでプロブレム用の魔法の上から認識阻害魔法をかけてわかりづらくしてある。
「イデアさんが来るまで何か遊びますか? 二人で短時間でできるものもそれなりにありますが」
とりあえず椅子を勧めて、先程色々と詰め込んだばかりの棚の前に立つ。本当は茶の一つも出せたらいいのだが、ボードゲームの基本的なコンポーネントは紙で出来ているものが多く、水分をかぶると台無しになりやすいので、チェス部としての過去の遺産の一つであるチェスセットに比べればまだ常識的な値段のティーセットは存在しているが、茶葉と水の備えはない。菓子類も同じ理由で基本的には部室へは持ち込みが制限されている。たまに体験入部をしに来るハーツラビュル生がほとんどいつかぬ理由だ。かつて存在したチェス部はつまりそういうことなのだろうと現役のボードゲーム部員たちの間でたまに話題に上る。
「いらん。アーシェングロットこそ今日の錬金術で分からないことがあっただろう。今なら聞いてやるぞ」
先程はこちらの用件を優先したからなと告げる教師に、実は全てばれているのではと内心で肩を竦めながらも遠慮なくノートとテキストを取り出した。
§
「え、何これどういう状況?」
やる気があればいくらでも学生の学習に力を貸してくれる教師とのやり取りに熱中しすぎていたと気づいたのは、待ち人の声が耳に入ったときだった。名ばかりの顧問は決して部室へとは赴いては来ないので室内に部員以外の人、それも教師がいるという状況にものすごく腰が引けているのに、ここの部屋のドアを開け放しておくことのほうが危ないと理解しているせいでイデアは手際よく複数の鍵を閉めきる。
「よく来たなシュラウド」
自ら退路を断ったことには気付いてないのだろう。あわてて逃げようとするイデアの腕をすかさず捕まえてクルーウェルが笑った。時計を確認すればとうに放課後に入ってそれなりに経っているが、授業終了後に人の行き交いが減る頃合いを伺っていたのなら妥当だともいえる。
「ひっ、クルーウェル悪役ムーブ似合いすぎじゃないのなんで捕まってるんです拙者」
「先生をつけろ。学園長からの呼び出しだ」
わたわたと抵抗していた長身はその一言でぴたりとすべての抵抗をやめた。燃える髪をこころなしかぺしょりとさせ、恨みがましい目でアズールを見つめてくるその勘の良さが素晴らしい。にこりと笑い返して手元に広げていたものを全て畳んで鞄へとしまう。クルーウェルは普段から快く学生のために時間を取ってくれる教師ではあるものの、授業の前後だけでは聞きづらいことはやはりあるもので試験の足音が聞こえてくる頃合いの今、勉強はよくはかどってありがたかった。
とはいえ本日の標的が捕まってしまえば、部外者を部室にいつまでも置いておくのもよくない。秘密を悟られないようにするには、そもそも秘密があると知られないようにすることが一番だ。閉められたばかりの鍵をクルーウェルからは見えないように気をつけながら開けていく。閉じる手順よりも開ける手順の報が遙かに煩雑なのは、もし万が一部外者が中に入り込めたときにたやすく出さないようにするためだ。
クルーウェルと、彼に腕を捕まれたままのイデアを先に通してからアズールも部室を出て、今度は人を中に入れないために鍵をかけていく。部室内に林立していたチェスボードを名残惜しそうに見ていたイデアへはあとで先程チェスボードを入れ替えるために記録をとっておいた棋譜を送りつけようと胸の内でメモをした。今回はアズール自身は参戦していないので気楽なものだ。
廊下を行き交う人影は既にない。
「アズール氏、学園長から何毟り取ったの」
クルーウェルからはすでに対価をとってると看做しているのに油断をしない先輩に殊更ににっこりと笑ってみせれば、ひえと悲鳴が返ってきた。
「失敬な。そもそもイデアさんから取り立てることしか考えてません。学園長が支払ってくださるなら吝かではありませんが」
とれるときにとれるところからとっておくのが商人というものだ。今回の元凶から取り立てることについては何の躊躇いもない。先に来ていた連絡からすれば、むしろ遅かったともいえる。
「拙者に支払い義務なくないか――ってあー、もしかしてそっちにも連絡行ってた?」
その察しの良さを全方位に向かって使えばもう少し生きやすいのではと思う傍ら、それでは摩耗しすぎるのだろうなと考える。引きこもって人との接触を減らすのは彼なりの処世術ではあるのだ。
「おいしいオリーブをありがとうございましたとお伝えください。お礼状はもうお送りしましたがご子息からもぜひご連絡していただければ」
数日前、モストロ・ラウンジ宛てに嘆きの島から予定にない荷が大量に届いたときは何事かと思った。去年のウィンターホリデーにアズールと幼馴染のウツボ兄弟をあわせた三人が珊瑚の海へは帰省しないと聞いたイデアに誘われて彼の地を踏んでから、シュラウド家にはよくしてもらっている。モストロ・ラウンジの開店準備を間を縫った日程だったため、滞在したのは年越しのほんのわずかな日数だけだったはずなのだが、手がかかるようで手のかからない連絡不精の実子よりよく食べるよそのこどもたちのほうがかわいいとシュラウド夫人はのたまい、その時からずっとまるで実家の母親のように気にかけてくれているのだ。今年のウィンターホリデーにはスカラビア寮の事変に積極的に介入した結果、伺い損ねたのは申し訳ないと思っている。
「いやオリーブとかこっちには来てないんだが草……来てないはず。どうだったっけオルト――あ、端末全部置いてきた」
デジタルデバイスの申し子のようなイデア・シュラウドがうっかり複数ある端末類を忘れてくるのは、ボードゲーム部の活動においてはよくあることだった。発声の代替手段であるタブレットを必要としない場だからという油断があるのだという。そのうえ、召喚術の応用でいつでも手元に呼べるためわざわざポケットを重くする必要もないらしい。
自由な片手をポケットにやったイデアは空ぶった手を引き抜いてから、今度は改めて指を鳴らして彼の杖を呼び出した。くるくると回る髑髏から浮かび上がった青く光る入力装置《キーボード》にぱちぱちとコマンドをたたき込むと魔方陣が自動的に展開されてスマートフォンが呼び出されてくる。
その仕組みについてアズールは訊ねたことがあるのだが、人によって得意不得意のある魔術を工学の仕組みに落とし込むことによって、誰であっても魔力を流すことによって同じ結果を得られるようにするということらしいのだが、それ以上のことはどうしてもわからなかった。
誰にでも、というわりにイデアの杖にアズールの魔力を流しても同じ結果が得られないのだが、イデアはそれを当然だという。まだまだ開発途中で汎用化には程遠いと嘯いていたけれど、機械的な指令《コマンド》を魔力を乗せて流すだけで魔法が再現される現状だけでもありえない。魔法とはイメージに支配されるものなのだ。決まりきった手順だけで何もかもが再現できるならアズールは幻想魔法に手間取ったりはしない。
が、それを改めてこの目の前の天才に訴えても無駄なことは知っていた。
ゆえに今、アズールが言えることはただ一つだけだ。
「あなた、オリーブ食べないでしょう」
正確には食べないのはオリーブだけではないのだが、何もかもに言及していたらすぐに学園長室についてしまう。
「食べないけど来たらアズール氏に横流す予定でござった」
去年気に入ってたでしょと聞かれて素直に頷く。お邪魔したウィンターホリデー後に、愚息に送っておいたからよかったらあなた達も食べてねとシュラウド夫人に連絡を頂いておすそ分けしてもらったのだ。美味しかったしかなりの量があったので、モストロ・ラウンジでも使わせてもらって、お礼に珊瑚の海特産の海産物の詰め合わせを贈らせてもらったし、今年も手配した。
「多分ですけど、今シーズンはイデアさんところには来ないと思います。ラウンジでもどうぞって結構な量を頂いたので。ラウンジ分のほうに申し訳程度の請求書ついていたの、あなたの入れ知恵でしょう」
近いうちに不肖の実子が迷惑かけると思うのでという先払いの迷惑料としてという名目で作物が送られてくる頻度はそれなりに高く、その、迷惑の元にもうちょっとなんとかといった結果がこれである。そこで迷惑をかけないようにしようとはしないこの先輩は、そういう意味では自己管理に長けていた。
「ばれてーら。まあ初回お試しだと思って。対価あったほうが次からも取引しやすいでしょ」
「次回用のお見積もりも入ってたんですけど参考価格探したら怖いぐらいの値引きでした」
温暖な気候の嘆きの島は実のところオリーブの有名な産地のうちの一つだ。交通の便がやや不便なため、あまり多量には出回らない分、高値で取引される。
「うちの農園、母の実験農場兼ねてるんであんま利益出せないんだよね。安定した供給もできないしかといってオイルにするにも漬物にするにも限度があるし。かといって安く卸すぎるのも市場にどうかっていうんで利用してるのはこっちなんであんま気にしなくていいよ」
島の中だと同業も多くて流せないし、かといってうちは外づきあいもあんましないからと言われてしまえば、反論もしづらい。
アズールが肩を竦めたタイミングでちょうど学園長室へと辿り着いた。イデアの腕は掴んだままクルーウェルが入室の許可を取って三人で中へと入る。
「クルーウェル先生、お手数おかけしてすみませんでしたね。お待ちしてましたよシュラウドくん――と、アーシェングロットくんもようこそ」
ディア・クロウリーは珍しい事にいつもはつややかな羽根をややパサつかせて三人を迎え入れた。
部屋の中央にある机の上には両手で抱えるほどの大きさのよく見知った色合いの青く揺らめく炎がのっていて、アズールは思わず傍らの先輩を振り仰ぐも、答えは意外は方から降ってきた。
「“シュラウドの迎え火”か」
鼻で笑うような声音のクルーウェルに、やっと腕を開放されたイデアが肩を竦める。
「ひひっ、流石にご存知で」
「久々に見た。相変わらずだな」
「使えるものはがんがん使っていかないともったいないですからな。というか別にこれだけなら拙者の部屋に直接寄越せばいいのになんでまた」
「とにかく引き取ってもらえませんか。一週間もお預かりしてたんですよ、これ」
あとこれも、とクロウリーが机の抽斗からやはり青い封筒を取り出して、炎の前で首を傾げているイデアへと差し出す。
「サーセン」
受取人に渡った瞬間、ふわっと宛名の金色の文字が光ってぱきりと封蝋が折れる音がした。
「んんん? 認証つき?」
顔を顰めるイデアの前にするりと勝手に封筒から抜け出した紙片が浮かぶ。アズールの位置からも紙面は窺えたが、不思議なことにそこに文字が連なっていることはわかるのにその中身はまるで理解が出来ない文字列にしか見えない。閲覧資格を持たぬものには意味がとれないようにする認識阻害のための魔法だ。どういう認証の仕方をしているのかイデアは何の動作もなくそれを読み通しているから、ごく普通の文面としてうけとれているのだろう。ただ、手紙を片手に何かを数えるように指を折っていたかと思うとやがてしおしおと長い手足を折りたたんでしゃがみ込んでしまった。
ぶつぶつと何かをこぼしながら膝に顔を埋める彼の床についてしまった髪をゆるやかに巻き取って、同じように傍に座り込む。
「イデアさん」
状況はさっぱりわからないが、オリーブの代金の本命はおそらくこの状況のフォローだろうとあたりはついた。
ひとつのことにのめり込むとイデアは周囲を気にしなくなるし、よく回る思考回路は自己完結型のため放っておくと何もかもを置き去りにして自室で演算するために唐突に転移陣で自室に帰ってしまうこともあるのだ。部室のセキュリティシステムはイデア自身によって転移阻害の術式が組み込まれているのだが、ここは学長室である。もしイデアがセキュリティシステムの構築に関わっていたとしても部室とは違ってバックドアを仕掛けておくぐらいはされているだろうし、ここから逃げられないようにしておく理由もないうえに、いざとなった時のためらいもない。
「イデアさん、お手伝いはいりますか。学園長と交渉が必要なら代理で承りましょうか」
「えっ」
クロウリーが素っ頓狂な声を上げるのを無視して根気よく声をかけていると、ふっとイデアのつぶやきが止まった。
「イデアさん?」
膝を折りたたんだままフィンガースナップ《シングルアクション》で呼び出した入力装置に踊るように指が滑り、いくつもの窓が開いては閉じていく。何かを作業していると言うよりは、情報の確認をしているのだろうと思わせる早さで、ぱちぱちと伸び縮みする青い透き通った画面はいっそ花火のようにも見える。
「アズール氏、今日の予定は」
「空けました」
もし消灯までに戻れなくとも大丈夫なように既に点呼の仕事は副寮長であるジェイドに任せてきた。
「君に仕事の依頼をしたい」
「承りましょう」
詳細を聞く前に躊躇いもなく頷く。学長室で話を振られている以上、これはイデア・シュラウドの個人的な依頼では収まらない用件である確率が高い。採算を度外視することはないが、依頼人がアズールをよく知るイデアである以上、最低限の報酬は保証されているからどちらかといえばおいしい仕事だった。
「ん、あとで詳細つめさせて」
散らかすように広げていた画面を掌を握り込む動作だけですべて消し去って、イデアはようやく立ち上がり、今度はスマートフォンを取り出す。
「もしもし、オルト。焔籠持ってきてもらえる? そう、大きい方。よろしく」