天使も踏むを恐れるところ 01.(にゃんちょぎ・Heri tibi, hodie mihi.のこぼれ話)
日向正宗が鍛刀されたという報せを対屋の厨にいた山姥切長義のところまで持ってきたのは、骨喰藤四郎だった。
「そう」
返事がそっけなくなったのは、ちょうどグラニュー糖にはちみつを混ぜて鍋で加熱してるところだったからだ。砂糖は焦げ付きやすいから目も手も離せず、聞かされた報せは一度耳を素通りして、特に感慨を覚えることもなかった。
新しい刀剣男士が来ることは、最近はそうそうあることではないがそれでも珍しいというほどでもない。とはいえ山姥切長義自身も昨年の十一月にこの城へと顕現されたばかりで、今までは一番の新入りだったからこうした報せがどういう風に告知されるのかはよくわかっていない。ただ、これまでにあったなにかしらの報せはすべて彼の兄弟であり山姥切長義の古馴染でもある鯰尾藤四郎が持ってきていた。気を遣われているのかとたずねたこともあったが、ただの仕事だと返されたことは記憶に新しい。
だとしたら、端末にはすでに通知が来ているのかもしれないなと思うも、いつも通り厨には持ってきていないため確かめることは出来なかった。
端末は緊急の報せを通知することもあるのだからいつも携帯しろと言われるのだとわかってはいるのだが、少なくとも厨では邪魔にしかならなくてつい部屋に置き去りにしてしまう。
「喜ばないのか?」
骨喰藤四郎に不思議そうに首を傾げられて、つられて山姥切長義も首を傾げる。
「新しい刀剣男士が顕現されるのは喜ばしいと思うけれど」
それ以上の感慨は特にはない。
今現在、期間限定で実施されている限定解除の鍛刀は半月ほど行われる予定だと聞いていた。対象の刀剣男士は日向正宗と大般若長光で、この城に顕現していないのは前者だけだ。資源運用がうまいとはいえない主がここで狙うか、年始の報奨で貰うかを悩んでいたのは知っている。
それがどうして自分が喜ぶことにつながるのだろうかと考えながら、ほどよく色づいて仕上がったカラメルにあらかじめ量っておいた胡麻をざらざらと投入したところでようやく理由を思い出した。
「あ」
とっさに骨喰藤四郎を振り返るも、鍋の中で山になったままの固まりそうな胡麻を放置も出来ずすぐに視線を戻してヘラで崩していく。火が通って熱された胡麻特有の香ばしい匂いがあたりを漂い始めたが堪能するどころではないとはいえ気が急いても出来上がりが早くなるわけでもない。カラメルと胡麻がきれいに混ざりあったところで火から下ろしてあらかじめ用意しておいたクッキングペーパーへと広げ、平らになるように整える。あとは粗熱を取ったところで切り分けるだけだと、使った鍋や道具はそのままにあらためて骨喰藤四郎に相対した。
「もしかして――」
「そうだ。南泉一文字になったそうだ」
律儀に待っていてくれた骨喰藤四郎がこくりと頷いた。
年末に主に呼ばれたときに、彼もいたから山姥切長義が南泉一文字を待っていたことは知られている。
喜ばないのか、という問いかけがじわじわと思考に染み込む。
次にいつ来ることがあるのかわからなかった南泉一文字が、年始の報奨によって顕現する可能性があると聞かされたときから、意識の一部がどこかふわふわと漂ったまま日々を過ごしている。途中で、初めて迎える年末の慌ただしさに巻き込まれはしたもののそれさえもどこか現実味がないまま終わってしまった。今日は、三が日も過ぎてどこか浮かれた気分を残しながらも通常通りの勤務体制に戻り、少し暇ができたので正月のごちそう食材の余りを使いはじめたところだった。胡麻とグラニュー糖とはちみつだけで作る簡素な菓子は中途半端に残った胡麻の風味が飛ぶ前にと選んだものだ。
「そう……か」
傍らにいなくなったと認識してからまだたった二月ほどの短い期間のうちにずいぶんと遠い存在になったものだと思う。
「そんなわけで十四日に引換所が開いたらすぐに迎えるつもりだそうだ」
明示された日付にくるりと厨の中を見回すも、面倒がって端末さえ持ってこないこの場所に日付がわかるようなものは何一つ置いていない。それでも往生際悪くきょろきょろとしていたら、今日は六日だと骨喰藤四郎が告げた。
「一週間後だな」
さくりと付け足された言葉に思いのほか動揺を覚えて、掌をぎゅうと握りしめる。
「早すぎないかな」
「そうか? 一刻でも早く会いたいかと」
「……そう、だね」
どうにか言葉を返したあと、なんといって骨喰藤四郎を見送ったのかは覚えていない。手元に残った胡麻のクッバイタはちゃんと切り分けられていたからきっと醜態はさらさずになんとか取り繕えていたのだろうと思う。端の不格好な欠片を取り上げて口に入れるとかりっとしたくちざわりとともにふわりと香ばしい匂いが立ち上った。
「これも、食べさせたいな」
自分に言い聞かせるように口に出してみる。
嘘ではない。この厨で作る試作品は基本的にはすべていつか来るだろう南泉一文字に食べさせるためのものだ。
けれどそれは、あくまで「いつか」のことだった。
もっとずっと遠いことだと思っていたから無邪気に待っているなどと思えたのだ。
言えるわけがなかった。
この期に及んで、会いたくないなどとは。
§
今日はぼんやりしているねと声をかけられて、泡立て器を握りしめていた山姥切長義は我に返った。
抱えていたボウルの中身は気づけばふわふわの生クリームを通り越して、黄色いぼそぼそとしたかたまりとどこからか染み出してきた水分とに分かれてしまっている。
何が起こったのかわからなくて、慌てて声をかけてくれた燭台切光忠へと差し出すとそんなに慌てなくても大丈夫だよと返ってきた。
「これはね、バターだよ」
「バター」
作っていたものはホイップクリームではと首を傾げるが、確かに色味はバターのようにも見える。どちらも牛乳から作られるものだということは知っていたが、たった今自分が生成してしまったものとどういう関連があるのかがわからない。
「お菓子作りしたことのある刀剣男士あるあるの失敗なんだよね」
僕も以前やったなあと言いながら燭台切光忠がてきぱきと新しいボウルにざると布を取り出して重ねていくのを見守っていたら、そっとボウルを取り上げられた。
「もう十分かなこれは」
ひとまぜしたあと、ヘラで生クリームだったものを手際よくまとめていき、用意したざるへ中身をあける。ぽたぽたと水分が落ちていくのをそのままに布の上に残った黄色い塊をくるりと包んで上からさらに重しを乗せた。
「しばらくこうして水分を濾します」
なぜかそのまま冷蔵庫へと仕舞われていく。
「作りたてのバター、すごくおいしいんだよ。分離したのはバターミルク。このまま飲んでもいいけどせっかくだしスコーンを焼こうか」
わかっていたと言わんばかりに、調理台に置かれたままだった小麦粉を渡されて、指定された分量を量っていたら、その上にベーキングパウダーが足されたので、あわせて粛々とふるう。
おやつはあればあるだけ食べられていくので、追加とはいえスコーンもかなりの量を作るようで、すべての粉がふるいにかけ終わる頃合いには燭台切光忠の手によって他の材料が用意されていた。牛乳だけは先程のクリームの残骸からでてきた水分と併せられてた分量となっている。
次はこれと差し出されたボウルにはバターと砂糖が既に入っていたが、山姥切長義が作り出してしまったものではないようだった。
「さっきのバターは」
「できたてのバターは焼きたてのスコーンにあわせるので、作るときには使わないよ」
当然でしょうといわれてもスコーン自体がなんだかわからない。そもそも今、先にオーブンに入っているシフォンケーキだって食べたことがないのだ。それでも燭台切光忠が作るお菓子がおいしくなかったことはないので、そういうものかと疑問は飲み込んで今度はバターと砂糖を混ぜ合わせ始めた。