父とわたし 01 (南泉が未婚の母で長義さんのこどもをうんで、こどもをのこしてしんだはなし)(転生パロ、のような)
母が未婚でわたしを産んだのだと知ったのは、母が亡くなってすぐのことだった。
「ちち……おや……?」
山鳥毛のおじさまが、母を亡くしたばかりのわたしに決断を迫るのは心苦しいのだがという前置きとともによこした爆弾は、あまりにもおおきかった。生まれてこのかた十一年ばかり、母と二人で暮らしてきたわたしは父が生きているのだと考えたこともなかったのだ。
「ああ。子猫は最後まで渋っていたのだが、葬式は死んだもののためではなく、生き残ったもののために行うものだ。ここ十年ほど疎遠にされていたとはいえ、訃報も知らされず、通夜にも葬式にも立ち会えないというのは彼にはあまりにも残酷だろう。もちろん、君が会いたくないのであれば式には遠慮してもらうが……」
おじさまの呼ぶ「子猫」というのは母のことだ。なぜそんな呼び方をするのかを尋ねてみたことはあったが、母は昔の癖が抜けないだけだとしか答えてくれず、詳しいことはわからないままだ。
「おとうさん、生きてるの……?」
「ああ」
わたしの呆然とした問いかけとはうらはらに、おじさまがためらいなく頷く。
「彼のことは小さい頃から知っているが、子猫と違って特に大きな怪我もなく病気もなくそこそこ元気に生きている」
この時までわたしは、我が家は父が早くに亡くなったがゆえの母子家庭なのだと思っていた。
物心ついた頃から覚えている限り、わたしは母と二人で暮らしていた。母の両親の影はなく祖父母という存在がわたしにはいないことも、父がいないことも気にしたことは殆どなかった。もしかしたら、幼い頃に友達にはいてわたしにはいない父や祖父母に関して母に問いかけたこともあったのかもしれないが、聞いたことを覚えていないということは返されたであろう回答ももちろん記憶にない。
たまに訪れる母の友人たちに「お父さんに似てきたね」と声をかけられることで、わたしにも父がいるということはなんとなく察していたが、彼らは今の父がどうしているのかという話は一切わたしの前ではしなかったので、なんとはなしに父は亡くなっているのだろうと思っていた。
そして、思い返してみれば母が父の話をしたことも一切と言っていいほどなかった。母の友人たちが話題にしていても話に加わることはなく、まれに好奇心にかられてわたしが父について彼らに尋ねて答えをもらっている時も楽しそうに笑って傍にいるだけだった。
ちなみに、父その人に関する情報はあまり詳しくは得ることはできず、今思えばおそらく母からあらかじめ口止めをされていたのだろう。よく似ていると言われるわりに、一度も写真を見せてもらったこともない。
それを不思議に思わなかったのは、母が事あるごとにわたしの写真を取ろうとする割にカメラを向けられることが好きではなく、一年に一度だけ写真館で母娘揃って撮ってもらう以外の写真があまりなかったからだ。わたしは母の昔の写真を見せてもらったことがないし、わたしがこっそり撮ろうとしても気配に敏い母はすぐに気づいて逃げてしまうことが多く、カメラのフォルダには残像のようにぶれた写真ばかり入っている。たまに奇跡のようにいい一枚が撮れることがあって、そのうちの一枚を遺影に使おうという話し合いが先程終わったばかりだ。
そうやって母を見送る準備をしながら、母がもうこの世界にはいないのだという実感がじわじわと忍び寄ってくるなかで、おじさまの発した「生きている」という言葉は不思議なほど私の心臓に突き刺さった。
「生きている……」
そうか、と唐突に思い当たったことがあった。わたしは父が亡くなっていると思い込んでいたけれど、父のお墓参りに行ったことは一度としてなかった。母が生まれる前に亡くなったという母の兄のお墓や、一文字のお墓には年に一度は足を運んでいたというのに、だ。
母は薄情なひとではなかった。面倒がりではあったとはいえ、手間を惜しむことはなく、母に会いに来る人たちの中には昔お世話になったからとわざわざ遠いところから足を運ぶ人もいた。そういう人のことを母はみな忘れることなく覚えていたし、歓待していた。
父が本当に亡くなっていたのであれば、お墓が遠いところにあろうとも、何らかの手段で弔うことをしないではいられないのではないだろうか。
だとしたら、父がいない理由は死別ではなく離別になる。
「お母さんたち、離婚してたの?」
普通なら思いつくだろう片親のもう一つの理由を検討することが殆どなかったのは、母の友人たちの口に上る父の話が懐かしさと慕わしさでできていたからだ。わたしが何も知らないこどもであっても、仮に父が酷いことをして母と別れたのだということをごまかしていると思い当たってしまうような薄っぺらい語り口ではなかったし、彼らの語る父の姿には純粋なる懐かしさだけがあって、そこに恨みや蔑みの匂いはまったくなかった。ゆえに「今どうしているか」についてまったく話題に上がらない父が生きているのだと思ったことがなかったのだ。
「ああ、そこから知らないのか。君の父と母は婚姻はしていない」
耳慣れないコンインという言葉が何のことを指しているのだとは咄嗟に分からず、首を傾げればおじさまは「結婚していないということだ」と言い換えてくれた。
「だから離婚もしていない」
なるほど。確かにあたりまえだけれど、結婚していなければ離婚もできない。間違いではないとはいえ、どうもすわりが悪い。
「そして、な。君の父親はそもそも君のことを知らされていない」
「はあ?」
思い切り怪訝な顔をしたわたしに、おじさまは「どこから話したものか」と顎に拳をあてた。
「とはいえ私が知っていることもさして量はないのだが……そうだな、短くまとめると子猫は君の父から逃げたのだ」
「逃げた……」
それは、わたしの知る母からは遠い言葉で、何故かこのときに初めて、父が確かに生きて存在しているのだという実感が湧いた。
「不思議か?」
問われてこくりと頷くと、おじさまは微かに笑った。
「本当のところは当人たちにしかわからないものだ。君のことを、君の父親が本当に知らんのかもわからん。余人に知れず連絡を取る術なぞいくらでもあるからな」
とんとんと示されたのは、先程から座卓に広げている一冊の手帳で、これは長かった入院生活のなかで母が残したものだった。これはわたしが知っている名前も知らない名前も書かれた母のアドレス帳で、純正のパルプでできている、今どきにしては珍しいものだ。生体認証が基本の個人端末は基本的に、持ち主が亡くなればただの板でしかなくなるから何らかの状態で外部へと保存するのはあたり前のことだけれど、それはたいてい何かしらのメモリであることがおおくて、アウトプットの状態で残されることは少ないし、手書きであることなんてもっと少ない。バックアップの重要性は誰だって初等教育の最初に叩き込まれるから、わたしもいくつかは用意しているとはいえ、こんなふうに手で書いたものはない。
きゅっと握り込んだわたしの掌の中でかさりと一枚のメモが音を立てた。こちらもパルプでできた紙で、くたくたになるぐらいに皺がいっぱいついていて、破れ目まで入っているのにそこからちぎれられることもないまま丁寧に伸ばしてある。基本的に思い切りの良い母にしては珍しい有様のこれは、手帳のカバーの下から出てきたものだ。
「わたしが嫌だといっても、こっそり知らせることもできるよっていうこと?」
「違う。逆だ。――君はまだこどもだからな」
大人はこどもは何も知らないでいてほしいと思うものなのだよとおじさまが肩を竦めた。
零れ落ちたメモに書かれていた名前に対して問いかけたわたしを耳触りのいい言葉でごまかしてしまわなかったのは、おじさまの誠実なのだろう。母は渋ったと言っていたのだから。
こどもはいつだって大人の世界からは弾かれやすいけれど、こどもの世界だって大人を弾く。こどもからおとなまでひとつづきのはずなのにどこで世界が変わるものなのか、小学生でしかないわたしにはまだわからない。わたしからみたらおとなである母だって、おじさまにはこどもなのだ。
「心配なのだよ、いつだって」
大きな手がゆっくりとわたしの頭を撫でる。
「まだ時間はある。もう少し悩んでいい」
やわらかな声にもう一度、掌の中のメモを見た。母の字をよく知っているからこそ、このメモの字がいつもよりも雑に書かれているのだとわかるような荒れた筆致で、人の名前と電話番号、それからいくつかの住所が記されている。一つ以外には斜線が引かれているから、おそらく引っ越しのたびに新しく書きつけていたのだろう。傍らに書き添えられている日付でおおよそ二年ごとにそう遠くもない範囲を転々としていることがわかる。
わたしは物心ついたころにはもう、この一文字のお屋敷の敷地内にある離れで母と暮らしていて住まいをどこかに移したこともないので不思議な気がした。母が入院する間はいつも母屋のほうで部屋を借りるのでそれが引っ越しと言えなくもないけれど、こちらもわたしの部屋だからと一通りの家具を揃えてもらっているので、別荘とか別邸とかそういう感じのものだ。でも、今後はきっと、こちらの方がわたしの家になるのだと、思う。いくら敷地内とはいえ、小学生が一人暮らしをするわけにも行かないはずだ。
そもそも母が亡くなってから一度もわたしは自分の家には帰っていない。正確には、玄関で足がすくんでしまったのだ。ただいまを言う相手も、おかえりなさいを言う相手ももういないのだと一歩も動けなくなったわたしを母屋まで運んでくれたのは、山鳥毛のおじさまのかわりに病院から付き添ってくれていた小豆のおじさまだった。
「お母さん、いつ帰ってくるの?」
母の遺体は色々な手続きの関係でまだ病院にいて、帰ってきていない。まだ時間があるというのも、そのせいだ。
「一月、はかからないと思うが……そうだな改めて確認してこよう」
おじさまが座卓に置いていた端末を手に立ち上がる。わたしのようなこどもでは応対しきれないことも多いからと、これまでも病院との連絡は基本的にすべておじさまがしてくれていた。
「うん」
「はい、だろう」
咎める声ではなく、やわらかな口調でこんと拳が頭に落ちてきた。
「はい。いってらっしゃい」
襖を開けておじさまが部屋を出ていくのを見送ると、部屋にひとりきりになったことに気が抜けて、こてんと座卓に顔を伏せる。木のひんやりした感触が心地いい。
家に戻りたいな、と思う。でも、同時に誰もいなくて暗い家には入りたくない、とも思う。
わたしが帰宅する時間に、母がいることはそんなになかったから、明かりのついていない家に帰るのは、なんてことないいつものことのはずなのに、今はそれがただ怖くて、怖いことが悲しい。
母がいずれわたしよりも遥かに早く逝くことは、誰に言われずとも知っていた。いつも元気で強くて優しかった母のどこに死の予兆があったのか明確に言葉にすることは難しく、帰宅して鍵を開けて家に入って明かりをつけて母を待っているあいだの、なんともいえない雰囲気にそう感じていたのかもしれないけれど、今となっては笑い話にもならない。
息を吐き出すと、その分だけずぶずぶと畳に沈んでいってしまいそうで、気分だけでも切り替えようと体を起こす。座卓に紙ものを広げるからと、飲み物自体をこの部屋に持ち込んでいなかったので、何かもらってこようと部屋を出ることにした。握りしめてしまっていたメモは丁寧に皺を伸ばしてもとのように手帳へと挟んだ。
襖を開けて足を降ろした廊下は冷えていた。古い家屋にこまごまと手を入れて住めるようにしている母屋のことは好きだけれど、こうして秋が終わって冬に向かおうとしている時期だけはつらい。
あわてて部屋に逆戻りして、先程、この部屋に来るまでの間に巻いていた灰色のストールを纏うことにした。足元は冷たいけれど、首と肩に背中を覆うだけで体感温度はだいぶましになる。母が昔くれたものだけれど、大きいのに軽くて暖かくて、寒くなるたびに引っ張り出すどころか、夏の空調に負けそうなときにも大活躍するほど酷使しているのにまったくくたびれる様子がない。角についてるタッセルもほつれる様子がないし、すっぽりとくるまった時にあまりにも心地がいいのでこのところは寒くても暑くても手放さずにそばに置くようにしていた。裏地があざやかな青色なのも、気に入っている。巻いた時にちらっと見えるのがいいのだ。
ストールと一緒に、銀色の土台に青いタッセルのついたストールピンも一緒にもらったのだけど、こちらは持ち運んでいるうちに落としてしまうのが怖くて宝箱にしまい込んでいる。ただ、宝箱ごと家に置いたままにしてしまっているのでそろそろ取りに行きたくもあった。他にも、こちらに持ってきていなくて欲しいものはいくつかあるのだけれど、どうしても踏ん切りがつかない。
古くて大きな家にありがちな、曲がりくねった廊下を抜けて厨房を目指す途中、庭に降りて電話をしている山鳥毛のおじさまがみえてふと足を止めた。決して人に聞かれたくない話をする時におじさまが外に出ることは珍しいことではないけれど、それはたいていお仕事の話のことであって、病院に連絡を入れるだけでそこまで行くことは滅多にない。
不思議ではあったけれど、忙しいおじさまの元に立て続けに電話が入ることはよくあることだし、廊下がこれだけ寒いのだから外はもっと寒いはずだ。せめて、温かいお茶をおじさまの分も用意して戻ろうと前を向き直すと、見知らぬ人が立っていた。
背はおそらく母と同じぐらいの男の人で、冴え冴えとした銀色の髪に、深い青色の目がすごく驚いたように丸く開いてぱちぱちと瞬いている。初めて会う人だと思うけれど、どこか見覚えがあるような気もした。
「――猫殺し、くん?」
何かを押し潰したようなひしゃげた声だ、と思う。そこに確かにあるはずのものをくしゃくしゃに押し込んでなかったことにしてしまいたいようなと考えて、さっきまで握りしめていた皺だらけでくちゃくちゃにされていたメモが脳裏に浮かんだ。
「いや、失礼。人違いだ」
一瞬で動揺などなかったかのようにきれいに取り繕って、遥かに年下のこどもに対するにはいっそ嫌味にも映るような丁寧なしぐさで目の前の人が腰を折る。
「申し訳ない。こちらの主である山鳥毛に約束があって伺ったのだが……」
応対してくれたのが馴染みのものだったせいで適当に探してくださいと言われてしまってと困惑したように告げる声に嘘の気配はない。人の出入りはあまりない屋敷だけれど、こういう「ひさしぶり」のお客様がおじさまのもとにいらっしゃるのは実はそうは珍しいことでもなかった。家人がそういうお客様にややぞんざいな扱いをするのもいつものことだ。今は、わたしの母のことでばたばたしているからなおさらだろう。
「おじさまなら――」
と、庭をもう一度見やると、おじさまは丁度この先の縁側のガラス戸を開けて上がってくるところだった。
「おじさま! お客様!」
行儀が悪いと怒られるのをわかってはいたけれど、お客さん越しに声を上げて手を振る。このところわたしの傍になるべくいてくれているようにしているだけで、基本的にはとても忙しい人なのだ。捕まる時に捕まえておかないと、家の中でもどこにいるのかすぐわからなくなってしまう。
「ああ、すまな――い」
おじさまの方を振り返ったお客さんの顔を確認した瞬間、きんと空気が張り詰めて、思わず目の前の人の腕をぎゅっと握りしめてしまった。あまりの不躾に慌てて飛び退いて頭を下げるとお客さんは不思議そうにしたものの、わたしを咎めるどころか落ち着けというかのようにとんとんと背中を叩いてくれた。言葉にしなかったのは、おじさまが近寄ってきたからだろう。すぐにそちらへ向き直ると、すっと頭を下げた。
「ご無沙汰しております。江雪の代理で伺いました」
「今連絡を受け取ったところだよ」
おじさまの笑いを含んだ声は少し前の雰囲気などなかったかのような振る舞いで、だけど目だけが刃物のように鋭い。
「江雪からは昨日のうちに連絡を入れておくと聞いていたが」
「わざとであろう。――ああ、君がそうしたとは思ってはいない。あの狸め」
「すまない。なるべく早い時間がいいと申し出たのはこちらだ」
江雪のおじさまは、一文字のお家が懇意にしている弁護士で、わたしもちいさいころからかわいがってもらっている。直接いらっしゃらずに、代理に誰かがというのは初めてだけれども、おそらくこどもが混じれない話をするのだろう。誰か捕まえて部屋を用意してもらってきたほうがいいかもしれない。
「あの、どこか部屋を――」
今度は意識的に袖を引いて口を挟んだら、お客さんが視線を合わせるためか膝をついたので思わず一歩下がってしまった。
「君は南泉一文字のご息女だろう。君にも同席してもらいたい」
唐突に出てきた母の名に今度はわたしの目が丸くなる。視界の端でおじさまの目も同じように丸くなったのがわかった。
先程間違われた「猫殺しくん」というのはつまり母のことなのだろうか。けれど、わたしは子猫と呼ばれているぐらいしか他の呼ばれ方を知らないし、もし本当に母のことなら自分で自分を殺すような名前だ。
それに、あまりにも普段から父に似ていると言われてきたので、わたしは自分が母に似ていると思ったことがなかった。色彩と髪質は母とお揃いなのだけれど、それ以上に顔立ちが父に似ていると母の身内である山鳥毛のおじさまですら言うのだ。
「知っていたのか?」
「ああ。ええと八年前かな。久しぶりに会った時にこどもができたと、直接聞いた」
膝はついたまま、おじさまの方へと視線が移る。
「そうか――ならそれに免じて教えてやろう。子猫が子を産んだのは、十一年前に一度きりだ」
「は?」
ぐるりと首が回って、大きく見開いた目がこちらを見る。間近に見えたその色はどこか覚えがある青で、どこで見たのだろうと内心で首を傾げた。
「きみが、じゅういっさい?」
喉の奥から無理やり絞り出したような声で問われて、こくりと首を縦に振る。
「はい」
正直、同年代と比べてことさら小さいわけでも大きいわけでもないわたしはとても八歳には見えないと思うのだけれども、こどもが身近でなければどちらも「ちいさいこども」と思うだけかもしれない。
「なまえ、は」
「千花。千の花でちか、です」
母に名の由来を聞いたときには何でもないように答えてくれたけれど、あとで山鳥毛のおじさまがそのためにどれだけ悩んでいたかをこっそりと教えてくれた。
「千花……さん」
遠慮がちに名を呼ばれて、はい、と応える。
「はじめまして。俺は山姥切長義」
告げられた名に息を呑む。
わたしはその名をくしゃくしゃになっていたメモで知ったばかりだった。
「君の父親だ」
そうか、と思い出す。
この目の青は、ストールの裏地の青と同じだ。
§
通りがかった小豆のおじさまに、改めて部屋を用意してもらって、三人でそちらに移動した。父と小豆のおじさまのやりとりは気心が知れていて、たしかにおじさまからも父の話を聞いたことはあったけれどもどこか不思議に思う。
わたしがストールを巻いていたからか、何も言わずとも暖かなお茶も淹れてもらえた。部屋は適度に暖まっていたのでストールは外して畳んだ。こちらで暮らしている間は自宅にいるときほど気の抜けた格好をしていないので、慌てずに済んでよかった。
部屋の真ん中に設えられた座卓にわたしと山鳥毛のおじさまが並んで、その向かいに父が座る。積もる話もあるかもしれないけれどまずは仕事だとおじさまが宣言したからだ。小豆のおじさまは今は忙しいからともう立ち去っている。
「それで、用件は」
「南泉一文字からの預かり物になります」
ことんと父の黒いかばんから黒い箱が出てきた。わたしの前に置かれた大きな平たいその箱は、つやつやとしていて金色の模様が入っている。
文箱という名を知っているのは、母が同じような箱をひとつ、持っていたからだ。模様が不思議だったのでよく覚えている。入院の際には持ち出してはいなかったはずだから、今も母の部屋のどこかにしまわれているはずだ。
「遺言書、のようなものです。正式な書式に則っているものではなく、ご息女に宛てた手紙と聞いています」
箱は父の目と同じようなあざやかな青い色の紐で閉じてある。おそるおそる持ち上げてみようとしたらすごく重かったので、取り落とす前にそっと戻した。
「それは本当に遺言書なのか?」
わたしが諦めた箱に手を伸ばして、同じように重さを確認したおじさまが胡乱げな声でたずねる。
「自分が死んだあとに開示されることを目的としているなら遺言書だと言い張ったのは、俺じゃない」
さり気なく目をそらす父が告げたその物言いは間違いなく母だなと、思わずわたしも遠い目になった。言葉の解釈を都合のいいように捻じ曲げて適応させてしまう母の手腕はいつも見事で、わたしは口喧嘩で勝てたことなど一度もない。
「千花さんがこれを開けて読むのはいつでもいいそうだ。そう、聞いていたのでこんなに早く持ってくるつもりではなかったんだが……」
ぼんやり続けそうだった言葉を慌てて飲み込んだ不自然さにわたしが首を傾げる前に、おじさまが口を挟む。
「江雪か」
「ああ。今日、ここに来るように俺に連絡を入れてきたのは江雪だが、おそらく仕組んでいるのは南泉自身だ。偶然を故意に起こすのはあいつがよくやる手だから」
目を伏せてことさらに平坦な声で父が告げるのに、おじさまもどこか遠い目で頷いた。
「そうだな。一石で何鳥も落とそうとするのもよくやる手だ」
深い溜め息をつきながら二人ともがわたしを見るので、母が仕組んだなにかの要は間違いなくわたしなのだろう。
黒くて重くてわたしの手に余る箱。