silent/noise 01.(ついすて/イデアズ)
その日、アズール・アーシェングロットが自室に帰ってくると、部屋は海で満たされていた。ドアから廊下へととぷりと波打つ水は黒々しい。照明がともされていないと言うことは侵入者はまだ寝ているのだろうと、とりあえず手にしていた鞄を一度床へ置き、靴を脱いで部屋へと上がることにした。玄関には見慣れたスニーカーが律儀に脱ぎ捨ててあって、彼には靴を脱ぐ習慣はないのに、こんなふうに自然とアズールの都合にあわせてくるところは好きにはなれない。陸《おか》に上がったばかりの人魚は、あまり長いこと靴を履いていることを推奨されないと伝えたこともない。気にしないで欲しいと訴えても気にしてしまう人だとはわかっている。スマホに訪問予告のメッセージをいれなくていいと口が酸っぱくなるほど言い続けてようやく、こんな風に入り込んでくれるようになっただけでも喜ばしいと思わなければならない。
海は、外から入ってきたものには触れることはない。自分を包む薄い空気の膜は事故防止のための結界の応用で作られているのだ。部屋の外へ海がこぼれていかないのも同じ理由で、慣れ親しんだはずの海の中にいるのに、隔てられている感覚は何度遭遇しても慣れない。
靴と一緒に靴下も脱いでしまったのでぺたぺたと音をさせながら部屋の奥へと進めば、ライティングデスクの下に青い炎が揺れていた。水の中でも変わらずに燃え続ける光景は何度見ても不可思議で、息を飲む。
「イデアさん」
思わず呼んだ名は海の中でははっきりと聞こえる音にならず、こぽりと気泡だけが上っていく。
そもそも、アズールの部屋の合鍵を有しているものは片手に余るほどで、そのうちの二人とは先程別れたばかりなのだから、侵入者がいるとしたらただ一人だけだ。
デスクの下では細い体をこの世から消してしまいたいかのようにぎゅうぎゅうと縮めて、長い手足を窮屈そうに折りたたんでイデア・シュラウドが眠っていた。