春の音色(くりつる)(りつかさんから)
この本丸にある重い鉄の扉に閉ざされたこの部屋の存在は、隠されてはいないが足を踏み入れるものも少ない。
ここは主の私物を持ち込んだプライベート空間だからだろうか。少し離れた位置にあるその部屋には重厚なグランドピアノが鎮座している。わざわざ改装を施して、この一室は防音室に仕立て上げてあった。おかげで音を鳴らしても、本丸で過ごすものたちまでは届かない。
偶然この部屋を見つけた鶴丸国永は、この黒光りする大きな物体を興味深く眺め、恐る恐る触れた。彼にそれがピアノであると教え、知っている曲を弾いてみせたのは大倶利伽羅だった。
それ以来、こっそりとこの静かなピアノ室に入り込むようになった。それはそう決めたわけではなかったけれど、ふたりだけの秘密のようだった。
重い扉を開くと、そこには先客がいた。
大倶利伽羅は、最近真っ先に確認するようになってしまったピアノの下に、白い塊を見る。鏡面加工された黒い本体にも白い姿は映らない位置だった。グランドピアノの下に隠れるように小さく手足を縮め、鶴丸はいつもそこで丸くなって眠っていた。
はじめのうち、大倶利伽羅は防音になったこの部屋は静かに昼寝をするのに丁度いいのではないかと思って時折ひとりで訪れていた。思ったとおり誰もいない。そう安堵して気まぐれにピアノの鍵盤をいくつか叩いたとき。
「弾かないのか?」
不意にピアノの下から声がして、大倶利伽羅は思わずびくりと肩を竦めた。
「……いたのか」
足元から這い出してきた鶴丸の存在に、まったく気づいていなかった。誰もいないと思い込んでいたこともあるかもしれないが、気配も何も感じなかった。
「ああ、ここなら静かだしひとも来ないし、ゆっくり昼寝ができる」
きみもそう思って来たんだろうと、鶴丸はゆるりと伸び上がりながら笑う。
「それでもきみのピアノが聴けるんなら儲けものだな」
それからこのピアノ室に来る三度に一度は鶴丸がピアノの下に寝ており、残りの二度に一度は後から彼がやってくる。音も聞こえないはずなのに、きみが居る気がした、と、ピアノをねだりに。
そのたびに、大倶利伽羅は数少ないピアノ曲のレパートリーを鶴丸に奏でる。時折音がつっかかっても、鶴丸はいつも嬉しそうに大倶利伽羅の弾く曲を聞いていた。
大倶利伽羅はわずかに軋む重い扉を慎重に慎重に、極力音を排除して閉める。がこん、とノブを倒してロックする音が響いたが、今日は鶴丸はまだ目を覚まさない。
風邪を引くぞと起こしていた季節を、ついぞ鶴丸は風邪のひとつも引かずに乗り切ってしまった。今はもう畳より冷たいはずの板張りの床の固さに体を痛めないかとわずかに思うばかりだ。
扉が閉まると、当然外の音も中には聞こえない。先ほどまで道場から聞こえてきていた同田貫の気合や、庭から聞こえていた桜の花びらを掃除する粟田口の子たちの声も届かない。
この部屋ひとつが完全に外界から遮断されてしまい、大倶利伽羅と鶴丸が世界のすべてになってしまう気がして、そっと閉めたばかりの扉を開ける。
ピアノを鳴らすのでなければ、防音にしていなくてもかまわないだろう。
開いた扉からは、一気に外の空気がながれこむ。
ここに住まう刀たちの気配だけではない。鳥のさえずりや、日に照らされて温まった空気を運ぶやわらかい風、芽吹く植物の青々とした匂い、そういったものが、停滞したようなこの部屋に押し寄せてくる。
外は先日主が春にしてしまった。
命の芽吹く季節だ。
それを意識する季節からこそ、静かに閉ざされた空間と鶴丸は時折妙な不安を掻き立てるのだ。馬鹿な考えだとはわかっているのだけれど。
そっと鶴丸に近寄って口元に手をかざすと、かすかな呼気が手のひらに触れた。
大倶利伽羅は扉の横の壁に背を預けて座り込む。開け放った扉から遠く聞こえる声は、その内容は判別できずただの音の塊となってその耳に届く。
左腕がむずむずと疼きだした。春の気配を浴びて、宿る竜が目を覚ましている。その腕をまっすぐ前に突き出すと、腕からするりと竜が抜け出して、くるくると滑るように床を回る。
竜は春を司る。自らの季節が来たと悦ぶように、春になると時折大倶利伽羅の意思より外れて、自由にこうして抜け出してしまうのだ。
春の空を遠く眺めやりながら、大倶利伽羅はふと浮かんだフレーズをそっと口ずさむ。
「はぁるのおがわはさらさらいくよ……」
たどたどしく、音が途切れてしまいそうなほどの小さな声。命のあふれる庭まで届かないように。鶴丸を起こさないように。
大倶利伽羅の歌にあわせて踊るようにくるくると動く竜は、ふわりと浮き上がると、眠る鶴丸の腹の上に落ち着いてしまう。くるりととぐろを巻いて、心地よさそうに呼吸で上下する薄い腹に揺られている。
「すぅがたやさしく色うつくしく……」
ああそうかと腑に落ちた。大倶利伽羅がピアノの下に視線を向けると、こちらを向いた金の瞳と視線がかち合った。
「いつ起きた」
「さっきな」
転がった姿勢のまま鶴丸がちょいちょいと竜を指先でなでると、その意図を察して竜がその腹から退く。しゅるり、竜は床に丸まったまま、まだ大倶利伽羅の腕には戻らない。
鶴丸がようやく半身を起こしてピアノの下から這い出てきた。
「なあ、続きは歌わないのか?」
いつもピアノをねだるように、鶴丸は大倶利伽羅に歌の続きを促す。けれど、ピアノを弾くことと歌うことはまた違う。大倶利伽羅は押し黙って、それから立てた膝に顔を伏せた。
「……寝る」
「なんだ、せっかく俺が起きたのに」
鶴丸は大倶利伽羅の前にしゃがみこんでその腕をつつく。
「続きを歌ってくれよ、大倶利伽羅。ピアノでもいいぜ」
おねだりの声は意図してかどうかほんのりと甘く、それに高確率で負けてしまいそうになるのだけれど、大倶利伽羅は顔を上げない。
なあなあ。
春の気候の心地よさに、呼びかける鶴丸の声が柔らかく耳に染み入る。それがふわりと眠気を誘うのだ。気持ちいい。とても気分がいい。
微動だにしない大倶利伽羅に、鶴丸がふうと溜息をつくのがわかった。それから大倶利伽羅が開けていた扉をぎいと閉める。
それを見計らっていたように、ぽろりと鍵盤が音を立てた。
鶴丸だろうか。そう思ったのと同時に、大倶利伽羅のすぐ隣に彼の気配を感じた。肩が触れるか触れないか、そんな距離に座り込んでいる。
それでも音は鳴り続ける。
思わず顔を上げると、腕から抜けだした竜はぽてぽてとその短い足で鍵盤の上を踏み歩いている。一歩進むとラの音が。しなった尻尾がドのシャープ。まるで何かの曲とは言いがたい、メロディラインにもならない音の連なりだ。一定のリズムも保たれていない。それでもその音は跳ねる竜の足に合わせて軽やかに跳ねる。
「ははっ、きみの代わりに弾いてくれているぞ」
鶴丸の声も軽やかに転がった。ぱちぱちと叩かれる手に気を良くしたのか、竜の鳴らす音がひとつ強く響く。
不協和音もなんのその、ただただ楽しい、嬉しいと言うように、竜はピアノの上で踊りまわる。
「ご機嫌だな」
耳元近くに落とされる鶴丸の声は、微かに笑いを含んで震える。
「俺も、きみも」
もう隠しようもなくそれは鶴丸にも伝わってしまっている。竜は自由意志を持って動きまわるけれど、結局のところ大倶利伽羅の竜なのだ。
「――春だからな」
どうにもきまりが悪く、どこか不貞腐れるような声になってしまったのは仕方がない。けれど鶴丸はその一言に嬉しそうに大倶利伽羅の手を取って踊りだしそうな軽快さで上下に振る。
「そうだな、春だな」
竜は飽きもせずピアノの上で踊る。春の陽気に浮かれた音色を鳴らして。