忘却の境界
「ねえ、わすれないでね。ぜったいだよ」
こどもが先程から何度目かの懇願を吐いた。その手の先には握ることの出来ない掌をもった白い影がいる。こどもの頭を撫ぜるふりをするのも実体を持たぬが故だ。
「おうとも。いずれこっちに帰ってくる日を待っててやるよ」
どこもかしこも白いそれはやわらかく笑む。
「ほら、そろそろ行きな。もうぎりぎりなんだろう?」
「うん。……やくそくだよ、つるまる」
「お前が覚えている限りは俺も忘れないさ。ほら、行って来い。大倶利伽羅は一緒なんだからちゃんと言うこと聞くんだぞ」
「わかった。またね」
「ああ」
駄々をこねたわりに、一度身を翻して走りだしたこどもはちらとも振り返らずに列に加わった。
戻れと急かしはしたが、まだ出立までは少し間がある。なんせ千をこえる人を二年に一度、仙台から江戸へと送り出す行列だ。鶴丸国永はそれに同行したことはないが、今回のようにまれに差料としてついていくことのある大倶利伽羅やその他の刀によれば短時間での強行軍だという。
地方の力を削りたい幕府の思惑に従わざるをえない行列は、大勢の人員を動かすがゆえに、かかる金も莫大で後はもうできるだけ早く早く歩くしかないらしい。それでも大勢で動くと十日ほどはかかってしまう。
鶴丸国永自身も以前、江戸から仙台まで運ばれてきたのだが、正直ほとんど眠っていて覚えがない。しかもその後に誂えられた拵は差料としてのものではなく、鶴丸国永はここへ来てから一度もこの土地から離れる機会がないままだ。佩かれぬ太刀に何の価値があろうかと考えなくもなかったが、それはとりあえず棚に上げることにしていた。
「保つと思うか」
こどもといれちがいに傍によってきた黒い影は問う形を取りながらも、その答えをとうに知っていると言わんばかりに顔をしかめている。
「いいや。あのこも次の正月には七つだ。だからこそ側仕えに上がるのだろうし、次はないだろう」
ことさら穏やかに微笑んでみせれば、大倶利伽羅は深くため息をつく。
幕府が定めた法により、藩地には藩主の妻子は在中できない。みな、江戸へと見えぬ鎖で繋がれる。先程まで約束をねだっていたこどもは、その側仕えとして江戸に上るのだ。そうすればもう滅多なことでは里へは帰ってこれない。そして、なれぬ日々に忙殺される内にこどもはちいさなころの約束を忘れ、七つ以上の年をとって人外のものを見るすべを失う。やがて藩主の傍に侍って帰郷するころには城内の付喪神と遊んだことを忘れている。これまでも何人ものこどもが約束をねだったが覚えておれたものは一人もいなかった。
鶴丸国永はそれでいいと思っていた。人ならざるものと触れた思い出はそうそう抱え込んだままでいるものではない。
「それでまたお前だけが約束を抱え込む」
「俺だけじゃないさ」
手を伸ばして、今度は触れることのできる頬に白い指を滑らせる。
「お前も覚えてくれているだろう」
約束をするのは鶴丸国永だけだが、それを見届けるようにいつも大倶利伽羅は傍にいた。
「――ああ」
「だから、いいのさ」
本当に再会を約束するのはただ一振りだけでよかった。