私だけを呼ぶ声

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おちる

 油断はあったのだ、と燭台切光忠は思う。
 なにせ阿津賀志山は何度来たのかおそらく審神者ですら数えてはいないだろうほど出陣させられている。慣れに慣れた道程に知らぬところはないような気がしていた。
 だから、そこに崖があったことは知っていた。
 今更、一歩足を踏み外して落ちるとは思わなかっただけで。
 深く溜息を付いても、現状は何一つ変わらない。いつまでも寝転がって空を眺めたままでいれるわけもなく、まずは腕を動かしてみる。じんわりと痛みはあるものの、あくまで打撲や擦過傷の範囲で収まっているようで指先まで支障なく動く。足についても同じで、折れたりひねったりはせずに済んでいるようだった。最後にゆっくり体を起こしてみてもあちこちの痛みを無視すれば支障なく動けそうだ。結構な高さを落ちたはずなのだが、ほぼ無傷で済んでいるのはやはり本質的には人の体とは別物だからだろう。さすがに装束までは全くの無傷というわけではなく、黒いはずの布地があちこち擦り切れて白さを帯びている。これも陣地に戻って審神者に願って手入れ部屋にかかれば消えてしまうようなものだ。
 問題は、この落ちた距離をどうやって上まで戻るかである。問答無用で落ちるようなところをよじ登るのは無理だが、崖の上と容易く意思疎通が図れるような距離でもない。上に登る道を探して動きまわるのがいいのかここでじっと待つのがいいのかは、落ちている間もはぐれずに済んだ己の本体とともにあっても悩むところだった。この時代に入り込む遡行軍も検非違使も相当な練度を誇る。迂闊に単独で動いてそういったものたちと遭遇するのは避けたい。
 服についた土埃を払いながら頭上を見上げても何も見えないはずが、なぜか白いものがふわりと降ってきた。
「生きてるか?」
 相当な高さを物ともせずに鮮やかに着地した鶴丸国永が、驚いたかと言わんばかりの軽さで手を差し出してきたので、つい素直に掌を重ねる。と、同時に強く手を引かれて姿勢を崩したところで頭に強い衝撃を感じた。
「つ、るさん?」
「君は馬鹿だろう」
 自身の頭にも相当な衝撃があっただろうに平然とした顔の鶴丸国永はあきれはてたようにそう言うと、ぱっと手を離した。
「合流地点は決めてきた。行くぞ」
 痛みの引かない頭を抑えながら先に歩き始めた白い背中をつい見送りかけて、慌てて後を追う。
 崖から落ちただけではなく、それ以上の穴に突き落とされた心地だった。

2015.06.22 | ワンドロ::燭鶴 | Permalink

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