空の下には出たくない
「南泉一文字」
よく晴れた日の昼下がり、部屋の外から己を呼ばう声に何ぞ見落としていた告知事項でもあったのかと顔を上げると、開け放したままの障子の先の、回廊の下に布をかぶった山姥切国広が立っていた。
「なんだ、二振り目の。珍しいなぁ」
打刀のうちで唯一、二の丸ではなく一の丸――本丸に居を構える二振り目の山姥切国広が訪ねてくるなど、ただの伝令でもあるまいと南泉一文字は開いていた本を閉じて立ち上がった。二の丸のなかでも外れに位置するこの部屋の前に階はなく、上がってもらうよりは自らが降りたほうが手っ取り早い。
「ああ。主の頼み事だ」
「頼み事……にゃ?」
思わずオウム返しをしてしまってから首を傾げた。二振り目の山姥切国広は初代の審神者より出陣を禁じられたまま、今は審神者の補佐を務めているから、切り出された用件自体は妥当ではあるのだが、わざわざ南泉一文字に持ち込むような案件があるというのが理解しがたい。
しかし、山姥切国広は躊躇いもなく疑問を肯定した。
「主は、これは個人的な頼み事で本来なら自分がこちらに赴くべきだと主張していたのだが、三歩歩いて転んだので置いてきた。とうとうここ数日まともに眠れていないので無理もないのだが」
「専門違いじゃないか……にゃ」
不眠の人間を眠らせるすべなど、永眠させる以外の手段は特に持っていない。
「いや、南泉という号は猫を切ったからなんだろう? だったら間違いではない」
姿なき猫を切ってほしいのだと主からの使者は告げた。
§
審神者によって励起された形である戦装束をきちんと身に纏って部屋を出る。刀は腰帯に差さずに携えた。与えられた形は名そのものであるのだから、何一つとして省略するべきではない。
器物にとって名とは己をあらわすためのものだ。由来こそ様々ではあるものの、名を与えられるというのはそれは他と区別するような事象があったことに他ならない。
誰に打たれたのか、誰に使われたのか、何かをなしたのか、あるいはその姿形など、何かが他と違うからこそ名となる。
それがわからぬ付喪神などそうそういない。人が何かを思い、名をつけ、語り継いで、名が形が残ったからこそ己があるからだ。時を経て由来がわからなくとも、残るものがあったということは何かがあったことに相違なく、それ自身の存在を証明する。
南泉一文字の名は淘汰されゆくものなかでは、物語が強く残っている方だ。故にその身を呪いに侵されているし、わざわざ試したことはないものの、猫を切ることは間違いなくたやすい。
本意であろうが不本意であろうが、名とは、そういうものだ。
だから審神者の目のつけどころは決して間違ってはいない。
戦場以外での衣服の汚染・破損における処理の面倒さには目を瞑り、膝をついてあらかじめ聞いた位置から縁下に潜り床下を覗き込む。中はまだ日が高いとはいえ灯りがあるわけでもなく、暗い。灯りを持ち込むことも考えたが、真実、野生のいきものが相手なら警戒させるだけだとやめた。
目が慣れるまで暫く待機するつもりでいたら、目的の猫の声はすぐに耳に入った。甲高く、必死で何かを呼ぶような声はたしかにずっと聞いていたら疲弊もするだろう。
不思議なのはこの猫に関する噂を聞いたことがないことだ。一の丸は決して狭くはないが、出入りも決して少なくはない。審神者の寝所にこの声が響くなら、不寝番として控えているはずの短刀たちの耳にも届く。ましてや今のように昼日中であれば他の刀の耳に入らないほうがおかしい。だが、実際はそれなりに一の丸に出入りしている南泉一文字も聞いたことがなかった。
二振り目のがわざわざ南泉一文字の部屋まで直接話を持ってきたというだけで事態の深刻さは見えていたし、為すべきことははっきりしていたので早めの対処を優先して最低限だけしか確認をしなかったのはやはり悪手だった気がする。せめて、どうして二振り目の自身が動かなければならかったのかぐらいは確認するべきだったと、己の本体を腰に差さず手にしていたことを自画自賛しながら、鞘も払わず、背後を確認もせずに振り抜けば、思ったとおりの衝撃が来た。その襲撃は過たずに最適解の軌跡を穿つからこそ対処が容易い。
「お前には聞こえてないんだ……にゃ?」
「俺だけじゃないな」
初手を防がれて憤懣やるかたないのを隠そうともしない古馴染みは、それでもすっと刃を収めた。この狭くて暗い床下で冷静さを捨てていないことに安堵して、自分の刀も引く。私闘は禁止されてはいないものの、ここで立ち回ることになったら各方面に被害が甚大に出る。
「主以外、誰も聞いていないはずだ」
山姥切長義は極めて平坦な声でそう告げて、傍らにしゃがみこんだ。膝こそついていないものの、肩に巻いている布の端が注意も払われずにすとんと地面に落ちる。
「だろうなぁ」
他に響かないはずのものが南泉一文字の耳には届くようになったのは、それが猫のものだからだ。
「わかっていたのに来たのかな?」
「気付いてたら少なくともお前は遠征か出陣かで遠ざけておいた……にゃ」
二振り目のから話を聞いたときには、隣室に気配がなかったので油断していたと肩を竦めれば、再び喉元に突きつけられた刃は不安定な姿勢なのに見事に狙いを定めていて、傍らからは殺気がひしひしと伝わってくる。
「これ以上損なわれたいのか?」
「実害はもう出てるからなぁ」
二振り目のは「とうとうここ数日まともに眠れていない」と言った。
であるならば、始まりはもっと前のことだ。
そして、人は眠れなければ死ぬ。ただでさえ長くはないという主の寿命を積極的に縮めたいとは南泉一文字は思ってもいないし、邪魔をしに来た山姥切長義だってそこまでは思ってはいない。
だから、気づかれる前にさっさと終わらせるつもりだったのに、この物騒な古馴染みの行動は思いのほか早かった。あらかじめ南泉一文字が来ると知っていて控えていたとしか思えない。
「――あぁ、だからかぁ」
だから、滅多に一の丸を出ないはずの二振り目のが外から来たのだ。
「鯰尾だな?」
脇差の中で一番始めにこの場所へ来たという古馴染みのうちの一振りには猫の話とともにまっさきに話が通っていたはずだ。そして、おそらくそのせいで山姥切長義がこの騒動のからくりの構造に気づいて話を堰き止めた。
肯定も否定も言葉で帰ってこないことが答えだろうと、喉元の刃をそのままにかしかしと頭をかく。
「人の認識で揺らぐものに関わる危うさなんて、今更猫殺しくんに説くまでもないことだと思っていたのだけれど」
「まあなぁ」
この現象は怪異でも何でもない。何かの物音を猫の声だと審神者が認識してしまったとこから始まった。一度気になってしまえば、それが実在するかしないかは関係なく、神経の細い審神者の耳には猫の声がくり返し聞こえ続けるようになる。
そして、南泉一文字には聞こえなかった音は、猫だと認識させられた時から聞こえるようになった。
「オレを呪うのは人で、猫じゃないからなぁ。聞こえるようになった時点で原因は主だ」
「っだから」
「だから、聞こえたらおしまいだ……にゃ」
振り下ろされずとも猫が斬れてしまったのだから、南泉一文字はただ鞘から刃を抜くだけでいい。床下に遍在する猫はそれだけでまっぷたつになる。
ぷつりと猫の声が途切れたことを確認して、振り下ろすこともなかった刀を鞘に収めれば、喉元の刃もすっと引いた。
「自ら呪いを強めてどうする」
山姥切長義の怒りはいつも正しいのだと南泉一文字は知っている。
人が名付け、人が認識している以上振り払えない呪いを理不尽だと言い続ける根気も知っている。
ただそれを己自身には使わない厄介さも知っていた。
南泉一文字の事情は南泉一文字のものであって、山姥切長義のものではないのだと主張し続けるのも疲れるのだが、と溜息をつく。
「それが認識されるってことだから仕方がない、にゃあ」
§
一時間後、揃って手入れ部屋の世話になった結果、装束の汚れについて考えずに済んだことだけはよかった気がした。
■蛇足(床の上)
「……あれは……つっこみ待ちとかそういうやつなのか?」
何故か傷だらけで床下から出てきた二振りを鯰尾藤四郎と手分けして手入れ部屋に押し込み、主が眠りについたのを確認してようやく息をついた。猫の声も聞こえなくなったと言うし、その猫の声をただの気のせいだから猫殺しくんの呪いを主自ら強める気ではないよねとここ数日膝を詰めて話に来ていた山姥切長義もなんとか追い出すことに成功したから流石に眠れるだろう。とりあえず扉には面会謝絶の札を貼っておいた。ゆっくり眠って回復してほしい。
「二振り目のもそういうこと言えるようになったんですね」
そういう鯰尾藤四郎の声もどこか乾いて聞こえる。彼も猫の声に振り回されたうちの一振りだ。
「……今代になってから、謎の仕事が増えて……」
これまでは一の丸の裏方で働いているだけで足りたのに、そうもいかない騒動が確実に増えている。刀剣の数が増えたのも一因ではあろうが、それだけでもない。
「お疲れ様です。まあ、初代の頃を思うと便利になりましたよね、うちも」
「違いない。それで、本科と南泉一文字はいったいなんなんだあれ」
尾張徳川の家に伝わった縁があることは、鯰尾藤四郎から聞き及んでいたし、ここ数日本科が主に目通りに来ていた理由は明らかに南泉一文字のためであったから、誼があるのだとばかり思っていた。
まさか床下から殺気が撒き散らされるようなことになるなどとは……。鯰尾藤四郎が前田藤四郎に話を通してこのあたりの人払いをしたときにはその必要性が全くわからなかったが今ならわかる。そうでなければ敵襲警戒態勢を即座に取らざるをえなかっただろう。
「あれでもねえ、ましになったんですよ。昔はもう顔合わせる度に切り合いしてましたからね」
「は?」
あまりの事実にとっさに頭が理解を拒んだ。うちに来たのは本科が先だったが、部屋選びの際につけた条件は、あきらかに南泉一文字のためのものだったはずだ。二振りがともにいるところには確かにあまり行き当たらなかったが、そもそも俺は一の丸以外で顔を合わせる刀は少ない。
「一応、相手の命を取らないようにすることだけは気をつけてたみたいですけど、顕現できない程度に相手の力を削いでは数年眠らせるのはしょっちゅうだったので、だいたいやりあってるか寝てるかのどっちかで。よく共倒れもしてましたし」
「ともだおれ」
先程、ぼろぼろになりながら床下から出てきた二振りはまさに共倒れと言うにふさわしい状態だった。腕や足が切り飛ばされはしていなかったので、うちにおいてはましな負傷状態ではあったが、つまるところそれなりに手加減もしていたということなのかもしれない。
「そのうち少しずつ妥協したみたいですね。あまりにも騒がしいんで遠ざかっているうちに気づいたらツーカーになってて過程はよくわからないんですけど!」
いえ、初対面からノータイム抜刀してたからもともとツーカーだった気もするんですけどとぼそりと呟く鯰尾藤四郎の視線は虚空をさまよう。
「……仲が悪かった理由とかは」
「さあ。みんな命が惜しかったので割り込まなかったですしねえ。ただ多分そんな深い理由はないと思います。俺の見たところ、あれは同族嫌悪じゃないかと思うんですけど自覚があるのかないのかはわかりませんしね」
「似て、るか?」
「そのうちわかりますよ」
理解はしたくないと思いますけど、と付け足された言葉がひどく不穏だった。