眠れない夜のための
暗闇の中、山姥切長義はぷかりと浮かび上がるように目を覚ました。たった今まで寝ていたはずなのに、不思議なほど頭が冴えていて、暗いところに慣れた目には部屋の様子がくっきりと映る。
必要最低限の調度品しか置いていない部屋は随分と広い。たまに、この二の丸の端のはしに位置する自室まで訪う知己たちには殺風景と言われるけれど、日々が暮らせるだけのものは揃えている。
人が日々を暮らしていく上で、必ずしも有用なものだけを揃えているわけではないというのは知っていたが、己には関係のないことだった。
それでもかろうじてこだわりを持って揃えたのは寝具で、寝台から掛け布団まで空いた時間にこつこつと万屋に通って誂えた。人の体を得て、人の真似事をするなかで、一番気に入ったのは布団にくるまって眠ることだったからだ。
以前の、確たる体もないまま意識を溶かすようにつく眠りも好んでいたが、夜の闇の中で意識を水に沈めるようにつく眠りも悪くなかった。
ときどき、ぽかりとうつろが生まれて一睡もできずに朝を迎えることもあったけれど、その理由はわかりきっていたので特に心配はしなかった。これまでは眠るときには必ず傍にいた古馴染みである南泉一文字が、いまだにこの城には顕現されていないというだけだ。刀剣男士の顕現はどうしても運に左右されがちなのでしかたのないことだと割り切ってはいたが、眠れぬ夜のその頻度が高いと寝不足になって、神経が参ってしまうのには困ったので寝心地のよさを整えることにしたのだ。
目論見はある程度は成功して、中途半端に目覚めてしまう頻度は格段に減った。たまにどうしても寝付けずに朝を迎えたけれど、それは本当に稀だったし、頻度を測る前に年が明けて、山姥切長義にとっての安心が城に配属された。
それからは、眠れぬ夜にすることは決まっている。
厳選に厳選を重ねた寝具のうち枕だけを抱えて寝台をおりて、隣室へと繋がる襖に手をかける。本来ならば隣室といえども、訪うためには一度外に出て回廊を回るべきなのだが、自身では使わないくせに面倒だからと壁の一部を襖に変えたのは己ではなく古馴染みだ。用意されたものを使わぬほうが失礼であるので、今日も躊躇いなく襖を開いた。
引手に抵抗があるのは隣室の管理人格《はんぶん》による認証が降りるまでの僅かな時間だけで、部屋の主である古馴染みはいつだって山姥切長義を拒むことがない。
自室と同じように明かりが落とされて暗い部屋に足を踏み入れれば、馴染みのある暖かな毛玉がすり寄ってきたので手を伸ばして抱き上げた。部屋の中では雄の三毛猫のかたちを取っているはんぶんも首輪代わりのリボンをあげた誼か、過剰に構いすぎなければ相手をしてくれる。
部屋の主は数日前から留守にしているから、目当ての寝台は空っぽだが、己の寝具一式を揃えるときに、一緒に誂えておいたものだから寝心地は保証されている。
それに、古馴染みの不在初日に布団を干して、洗えるものは洗っておいたので心地は間違いなくいい。ろくに眠れずに帰ってくるだろう相手のために用意しておいたものだが、予定を超過しても帰ってこないほうが悪いのだ。
寝台に枕を置いて形を整えてから、敷布と掛布の間に滑り込んで目を閉じれば、眠気はすぐに訪れた。
§
南泉一文字が、手伝いに呼ばれた先の新規システム《イベント》リリース直前デスマーチからなんとか抜け出して帰城したのは日付もとうに変わった丑三つ時のことだった。人に請われて手を貸すことに異論はないし、楽しんでもいるのだが人よりも頑丈に作られている分、遠慮なくこき使われるのだけは何度機会を重ねても慣れない。
もちろん、助っ人だけを働かせるわけではなくて、人間たちも脆い体で同じぐらい働くのだが、それゆえにはらはらするのだ。とはいえ、回数を重ねた今となっては泊まっていけばいいのにと机の下に潜り込むものたちを見限ってももう罪悪感はわかない。連日の徹夜はあまり睡眠を取らずにすむ己であっても心が死ぬ。
外との行き来が楽になるような設備を早いうちに整えてもらってよかったと思いながら、ゲートを抜け、主の執務室に顔を出して不寝番に帰城を報告する。手順こそ簡単になったが、セキュリティの都合上頻繁に行き来できないのは仕方がないような、もう少しなんとかならないものかと思う。戦うためにあるはずの己の本分を見失っているような気もするが、手伝いに駆り出されている先での戦いがなければ、そもそも、戦うこともできないんだよなあと欠伸をなんとか噛み殺して一の丸をあとにした。
西暦二二〇五年に歴史修正主義者による猛攻が始まって、後手後手に回りながらも、敵の技術を応用し、なんとか過去へ送り込めるものの算段がついたところからまず検討されたのは、いかに戦力を維持し、拡大していくかということだった。
眠っているものを励起することは、才さえあれば容易い。だが、ものの数には限りがある。分祀の案はすぐに出た。問題は、分祀した際に依代をもってしても存在の強度を保てないことだった。
その後、人間からの信仰を強めればいいのではという提案から、まず認知度をあげなければという課題になぜVRゲームという手段に辿り着いてしまったのか、南泉一文字は知らないし、知りたくもない。
だが、いくつか作られたうちの一つは当初の目論見を超えてヒットした。
本来の付喪神には性別はなく、自意識こそあれども姿形もあやふやだった。しかし、ゲームが人に膾炙されるにつれ、目論見通り、付喪神たちの存在の強度が増した。人に慈しまれて生まれるがゆえに、認識されるだけでも十分なのだろう。また、副次的な効能として、審神者としての素質があるものを見いだせるようになったことが挙げられる。
実働の本丸および刀剣男士のシステムがゲームを基盤にして構築されたのは、戦という非日常を日常にしなければならない審神者を慮ったのが一因だ。また、それまで確固とした肉体を持っていたわけではない付喪神が、身体があるという状況に慣れるために、意識のみをあらかじめ作られたポリゴン《アバター》へと移して動かせるというVRという環境は倫理的な問題も起きにくかったという理由もある。計画当初は、クローン体や機械体《ヒューマノイド》のを利用する案のほうが優勢だったのだ。それがデータだけで済むことになったので開発費や維持費も各段に削減された。
また、ゲームのために作られた各刀剣男士のアバターがそのまま使用できるのも利便が良かった。人に定義され、認識された姿形は個々の審神者による能力によって生じてしまう分霊のぶれを最小限に留めることができたからだ。
ゆえにゲームのサービスは実際の本丸の運営にとって大変に重要な意味を持った。刀剣男士はまずゲームへと実装されることによって安定した戦力の拡大をはかれるようになったのだ。また、顕現方法もなぞることである程度の志向性をもたせることもできるようになった。
問題は、制作・運営会社が外部委託であるとはいえ、国家機密に関わるためにたやすく人員を増やせぬところに生じた。実働の本丸のシステムも彼らが引き受けざるを得なかったことも災いした。
一言でいうと深刻な人手不足に陥ったのだ。
それがどうして回り回って、実際に戦場に出るために顕現した刀剣男士たちがシステム開発や保守に関わるようになったのか語るものは現場には誰一人としておらず、ここ一年ほどの参戦である南泉一文字には窺いしれない。ただ、本丸に使われている技術に興味をもって己のように勝手に学習した挙げ句、赤紙が寄越されたのだろうことだけはわかる。
しかも、ちゃんと給与も出る。人にあらぬものであるからこそ、対価は必要だと主張した人間がいたのだ。とはいえ、人の貨幣で支払われるため、南泉一文字には微妙に使いどころがなくて口座に溜まったままだ。刀としての本分である戦働きでも十分な給与を得ているため、余計に持て余している。初任給を寝具を揃えることに使い果たした古馴染みが、次月の給与をそのときにはまだ顕現されていなかった南泉一文字の分の寝具に使い果たしてくれたため、実のところ、どちらの給料もほぼ手を付けていない。
基本的な衣食住がすべて保証されている城内で暮らしている分には貨幣はさしたる意味を持たないのだ。
だからといって主に言わせるとかなりの金額である一月分の給与をすべて寝具につぎ込むような金の使い方もどうかと思うのだが、実際の寝心地は大変によかったので、感謝の言葉以外については口をつぐんだ。
さすがにぐらぐらする頭をなんとかまっすぐに保ちながら、二の丸の端のはしにある自室へと外から回り込む。先に顕現していた古馴染みが気を利かせて確保してくれていた自室はどこからも遠いけれど、その一角に起居しているのが己と古馴染みだけなので夜更けに多少雑に物音を立てても気兼ねがないのが楽だった。
設定に従って律儀に外の世界と同じ星と月の運行を守っている空は、外で見上げるよりもずいぶんと明るいから、道に迷うこともなく部屋の前にたどり着いて、隣刀と共同で置いた沓脱石から回廊に上がった。接触式の自動ドアへと改造してある襖に触れると、在室のサインが浮かんだ。
「来てたのかぁ」
しまったなと思う前に襖が開いたので、つい足を踏み入れる。暗い部屋の中で、侵入者はちゃんと布団にくるまって寝ていた。今更、お互いの気配で目を覚ますほどの繊細さは持ち合わせておらず、遠慮なく寝台に近寄って枕元に膝を落とす。
自己管理のできる古馴染みは顔色が悪いということもなく、規則正しい寝息を立てながらぐっすりと眠っている。
いつもなら、この刀が己の部屋に入り込んで眠りに来るときには、相手が望んでいるように見ないふりをして部屋を出ていってやるのだが、今日の南泉一文字は疲れ切っていた。己の場所と定めた自室に帰ってきて、座ってしまったら最後もう立つ余力は残っていない。かろうじて、腰に差していた刀を抜き、大袖と草摺を外して床に転がして、寝台の縁に体を預ければ、瞼が自動的に落ちてくる。こんな体勢で寝てしまえば翌朝に後悔することはわかりきっていたけれど、ただ疲れていた。
かわいそうになと意識が落ちる前に呟いたのは、間違いなく山姥切長義のためだった。
§
「なんせん、起きて、なんせん」
それを、泣く声だと知っていた。目からは涙をこぼせぬ強がりの、精一杯の泣き声だ。
かわいそうにと憐れまれていることを知ってなお、怖いものを抱え続けているものだった。
「なんせん」
幾度目かに呼ばれた名に合わせて、まだ重い瞼をこじ開けた。部屋の中は暗く、夜明けにはまだ遠い。光があるときにはさえざえとした様子を見せる銀色の髪も闇に沈んだまま、古馴染みの顔を彩っている。
「どうした……にゃ」
改めて問いかけるまでもなく、起こされる理由は知っていた。
わかりやすいものもわかりにくいものも要因はいくつかあれども、根本にあるのは不安だ。
南泉一文字が目を開いた安堵に、山姥切長義は寝ぼけたまま柔らかに笑う。
「部屋の主である猫殺しくんがそんなところで寝ているからだよ」
ちゃんと寝台に上がりなよと言われて、疲れ切ってはいたが少しでも眠ったおかげでなんとか動かせるようになった体をどうにか起こして、片側が空けられた場所に潜り込む。ちゃんと叩いて形を整えられた枕にありがたく頭を埋めて、狭い布団のなかで触れるか触れないかの距離にあった体温の持ち主を抱き寄せた。
さっさといつものように何もかもを忘れて眠ってしまえとあやすために背中を叩いてやれば、すぐに腕の中の体からはくたりと力が抜けて、もとのように静かな寝息を立て始める。
けれど、数日の徹夜を経て体も心もくたくたな自分は、今夜はもう眠ることが出来ない。
かわいそうになと、今度は己のために呟いた。